「ToHeart2X」 短編小説未来の二つの顔

Introduce

あの日、あの時、あの場所で。

ちっぽけな横線が彼を休日の学校へと追いやり、
ささやかな生理現象が彼を校内へと導き、
そして僅かな好奇心が彼を屋上へと押し上げた。

それは本当に小さな偶然の連続。
決して交わらないはずだった二つの人生。
彼方の蝶の羽ばたきが此方の暴風を起こすかのように、
小さな行動が世界を瞬きの間に変えてゆく。

───ただ、それでも。
   偶然が何をもたらそうと、
   例えば幸福や不幸を決めてゆくのは
   行動というヒトの技の領域なのである。

ToHeart2サイドストーリー
"FABVLAE VIRGINES PRVNORVM"

緋い桜
the Scarlet

有栖山 葡萄

第一章

あなたが……いない


二人はホテルを出て、口数も少なく並んで歩いていた。

互いに惹かれあった二人が、初めてホテルで時間をすごした。その帰りにしてはあまりにも不自然なぎこちない空気が、二人の間に流れていた。

彼が緊張のあまり勃たなかったとか、彼女が怖さのあまりに拒絶したとか。そんな平凡な、初めてのカップルに良くある些細な問題(当の本人達にとっては深刻な問題だが)であったのなら、まだ二人には幸せであったのかもしれない。

彼女は、彼に触れてもらう事すら出来なかった。

彼は、彼女に触れる事すらしなかった。

互いの想いのすれ違い。

いや。彼女が彼に、自分の願いを受け入れてもらえなかった。彼に対する溢れる想いを受け止めてもらい、二人の間にある最後の距離を無くしてもらいたいという願いを。

難しいことではない。

ほんの簡単なこと。

彼女は、彼に抱きしめてもらいたいだけだった。

彼の両手で、自分を包み込んでもらいたいだけだった。子供が親の愛情を確かめるように。自分が今、そこに、彼の大切な者として存在していることを確かめるために、抱きしめて欲しかった。

ただ、それだけの願いだった。

彼女はもう一人でいることに、耐えられなくなっていた。彼女が一人でいる為の守りとしていた、人への拒絶、他人に対する殻はすでにぼろぼろに崩されていた。

今、横にいる、彼の手によって。

だから彼女は、自分自身の全てを彼に委ねたかった。彼こそが、自分の全てを受け止め、自分を守ってくれる存在だと、そう信じたのだった。

だけど、現実は違った。

彼が彼女を抱きしめることはなかった。目の前にいる、全てをさらけ出し、全てを差し出した彼女の想いを、受け入れることはなかった。

彼は彼女を抱きしめられなかった。

彼は彼女の想いを理解していた。きっと、彼女の想いは、自分が受け止めるものだとも。

だけど彼の中で、何かが崩れていく。彼女の想いを受け止めることと、肉体を重ねることの意味を、彼の心は相容れないものと感じた。

光と影。相容れないようなものであって、互いが同時に存在しているもの。その事に、彼は気付いていながらも、二つを分離しようとしていた。

愛情と欲情。

綺麗なものと汚いもの。

彼の記憶、遠い昔。

「女の子は、繊細で壊れやすいものなのよ」と誰かが言っていた。だから、気安く触れてはいけないのだと。

愛しい者を、壊したくないと。自分の卑しい欲情で、彼女を傷つけてはいけないのだと。

もう一つ、彼の心の奥深く。

無意識のうちに感じていた危機感。

それは、今の関係を崩したくはないということ。

彼と彼女の間の距離が縮まり、深い仲になっていくことへの恐怖。

いつか、彼女を傷つけてしまうのではないかという怯え。

今の関係でいられれば、これ以上進まなければ、まだ引き返せるのではないかという甘え。

そして、彼の恐怖や怯えや甘えは、さらに別の危機感を生み出していく。

二人の関係を築く上では、本当につまらない、むしろ全く意味を持たない事といっても良いだろう。

しかし彼の中では、その考えが途方もなく、大きなものとなってのしかかってきた。

ここで二人の関係が進んでしまうと、周囲の人間関係が壊れてしまう。

今の生活が、壊れてしまう。

彼女との関係だけではない。周囲の環境が変わってしまう可能性。いや、可能性というよりも事実であろう。

二人の関係が変われば、周囲の人間関係も大きく変わるのは紛れもない事実。

そんな恐ろしい事を、自らの手で引き起こしたくは無かった。そんな大それた事をできるほど、自分は強い人間じゃない。そんなことは、自分の役回りじゃないのだと。

だから触れてはいけないのだと。

だから受け入れられないのだと。

彼は逃げ出した。ただ、逃げ出した。

相手の想いを、行動を、「今日の先輩、おかしいよ」と詰りながら。

彼女はその言葉を、どんな想いで聞いていたのだろう。俯き、拳を硬く握り締め、身体をわずかに震わせ何を考えていたのだろう。

しかし、最後にはふわりと力が抜け、彼に微笑みかけて言った。

「ごめんなさい、河野さん。貴方にまた、迷惑をかけてしまって困らせてしまって。本当にダメよね、私。こんなこと、バカみたい……」

彼にも、彼女がどんな気持ちでこんな言葉を言っているのかは判った。

儚げな今にも崩れそうな微笑みの裏側に、どれほどの悲しみを隠しているのか。そして、どれほど彼女自身を責めたてているのかも。

なのに、何一つ言うことが出来なかった。彼女にかける言葉のなにひとつ、思いつかなかった。

ただ、「先輩……」と力なく、呼びかけともいえない声で呟くのが精一杯だった。

「河野さん、貴方には感謝してる。ありがとう……だけど私、やっぱりダメな子なの。ごめ………」

最後の言葉は、声にならなかった。

彼女は、その場から駆け出した。これ以上その場にいることは耐えられなかった。最後の言葉は泣き声に掠れ、彼に背を向け走り出す。世界の全てに背を向けて走り出す。ちらつく街灯の光が反射する涙を、空中に残して。

彼は身じろぎ一つ出来なかった。視界の端で、アスファルトに弾け消える涙の輝きを感じながら、小さく消えていく彼女の背中をただ見つめていた。

心の中で「今すぐ追いかけろっ」と、誰かが叫んでいる。

「手遅れになるぞ」と、急き立てる。

だけど。

彼には、もう彼女を追うだけの勇気はなかった。

ただ、なにもない空っぽな抜け殻だけが、そこに置き去りにされているだけだった。

第二章

腕の中へ

気がつけば彼は自宅の玄関前にいて、ドアノブに手をかけたまま立ち尽くしていた。

ぼんやりとしたまま、鍵を開けることもなく、ただその場にいた。ひんやりとした金属の感触も、彼の意識を戻すことはなく、なぜ自分がここにいるのかさえ思い出せないでいた。何かきっかけがなければ、永遠にそのままでいたことだろう。そのくらい、彼の精神は憔悴しきっていた。

おそらく時間は、すでに日付が変わってしまった頃だろう。玄関前に立つ彼に、そっと背後から小さな人影が近づいていく。その姿は、小動物のように恐る恐るといった感じで、不安げに彼との距離を縮めていった。

手を伸ばせば届くくらいの距離まで近づいたとき、人影は彼に声をかけた。

「どうしたの? タカくん」

「っ!」

彼は呼びかけに身体を一瞬強張らせると、声のした背後へゆっくりと振り向いた。

「この……み」

彼が名前を口にする。振り返った彼の目の前にいたのは、隣に住む幼馴染の少女だった。

「タカくんがずっと玄関にいるみたいだったから、鍵をなくしたのかと思って。はい、これ。鍵、もってきたよ」

彼女、柚原このみは、彼の知るいつもの笑顔で鍵を差し出していた。

その笑顔に、救われた気がした。

「ありがとう、このみ」

彼はようやく呪縛から解き放たれ、ドアノブから手を離すと、このみから鍵を受け取った。

鍵をなくした訳ではなかった。実際には、彼のポケットには、鍵は入っていた。

だけど、このみから鍵を受け取った。

せっかく持ってきてくれたものを、断るのが申し訳ないという気持ちもあった。しかしそれ以上に、彼女の、このみの優しさが嬉しかった。その優しい気持ちを、彼は受け取りたかったのだ。

彼の表情が少し和らぎ、笑顔になった。

「よかった」

このみは、本当に心の底から良かったとにっこりと彼に微笑みかける。

その微笑に安堵する。

彼は受け取った鍵でドアを開け、玄関に入る。そして振り向くと、このみに鍵を見せた。

「ほら、また預けておくぞ」

このみが慌てて手を差し出すと、彼は彼女の掌に鍵をそっと落とした。

受け取った彼女は、鍵を大事に握り締めると、その拳を胸に当てた。俯き加減に、愛しいものを抱きしめるようにして。

「ありがとな、おやすみ」

彼が言うと、このみは顔を上げ彼を見上げた。

「タカくん、ずっと外で寒かったよね? 今、お茶を入れてあげるね。少しは暖まると思うよ。そうしたら、少しお話したいな、って」

照れくさそうに、でも彼女の意志をはっきりと込めて、このみは彼に言った。

確かにそのとおりだった。どのくらいの時間、あのままでいたのか彼にはわからなかったが、身体は芯まで冷えてきっていた。もうすぐ五月とはいえ、夜はまだ冷える季節であった。

それに彼一人でいても、ろくなことを考えそうになかった。だからこのみの暖かさに、今は甘えたいと思う。先ほどの出来事は、今は忘れておこうと考える。誰かの優しさに触れて、自分の傷を癒したいと流されていく。

「そうか、悪いな。じゃあ、あがってくれ」

彼はこのみに声をかけ、家に招き入れると自分は先にリビングへと向かった。

「うん。おじゃまします」

律儀にちゃんと挨拶をし、玄関を上がり靴をそろえると、このみも後を追ってリビングへと入った。

「タカくんは座っててね。あっそれよりも、先に熱いシャワー浴びてきたほうがいいかも。お湯を沸かすのに、ちょっと時間かかりそうだから」

このみは彼に声をかけながらリビングを通り過ぎると、カウンター向こうのキッチンに立った。そして薬缶に水を入れ、コンロの火にかける。

「あぁ、そうさせてもらう」

彼は二階の部屋に上がり部屋着をとると、一階の浴室へと戻った。服を脱ぐと、冷えた空気が肌を縮ませる。手早く浴室に入ると、シャワーのコックをひねる。手を差し出し、冷たい水が徐々に温かくなる頃合を確かめて、頭から一気に浴びた。

寒さに緊張していた身体が、徐々に表面から熱を帯びてきて、緩んでいった。

弛緩していく身体からは、別のものも流されていっているような感じもあった。緊張していたのは、寒さからだけではなかった。

つい数時間前の出来事が、脳裏に浮かぶ。

ばらばらに散らばった時間の中で、先輩の、久寿川先輩の姿が浮かんでは消えていく。

声にならない「ごめんなさい」を残して、涙を流し走り去った後姿。

水族館で大好きなナマコの水槽を、ぼんやりと眺める焦点の定まらない表情。

「貴方と行くなら、お月様でも構わない」と彼女らしくない冗談を言いながら、恥ずかしそうに落ち着きなくしている仕草。

彼の耳に「河野さん」と呼びかける先輩の声が聞こえる。

「くっ!」

彼は鳩尾に猛烈な不快感を感じ、その瞬間に嘔吐した。なにもない空の胃袋からは、黄色い胃液だけが吐き出された。吐き出すたびに、焼けるような喉の痛みと、耳を圧迫する苦しさに耐えた。

彼女と出会ってからの出来事が、脳裏に浮かぶ。

先輩と初めて出合った学園の屋上で「ごめんなさい」と呪詛の様に何度も繰り返し、泣いている姿。

終業式で、朝霧先輩への送辞を言えず「行かないで」と泣き縋る姿。

何度も、何度も。彼の嘔吐は止まらない。

初めて二人で街に出かけたときも水族館だった。満面の笑みを浮かべ、途中つっかえながらも一生懸命クラゲの話をしている姿。

また彼女の声が、彼の耳に聞こえる。

脱ぎかけの服で裸体を隠しながら、身体中をほんのり紅くさせて俯く姿。

彼の手を取り「触れて」と哀願する姿。

胃液すら空になり、もう身体には吐くものは残されていないというのに、彼の嘔吐は止まることがなかった。喉が切れ、口からは血の混じった粘液が垂れ下がっている。頬には涙が止まらず流れ、鼻からもだらしなく粘液が垂れ出ている。

彼は嗚咽を上げ、ただひたすら吐きつづけた。

どのくらいそうしていたのだろう。彼は本当に空っぽになり、流れ落ちてくるお湯にただ身体をさらしているだけになっていた。

全てが流れ去っていった気がした。

先輩との想い出も、先輩への想いも。

彼にはもう、彼女との関係を支えるだけの力は残されていなかった。自分が築き上げてきたと思っていたものは、砂上の楼閣だった。いや、彼自身が築いてきたものを全て台無しにしたのだった。

もう戻れない。そう、彼は悟った。

彼の視線がふと下がる。そこで目に入ったのは、勃起した自身のペニスだった。憔悴しきった己の身体と心とはまるで反対の、力漲る姿を晒していた。

彼は驚き、そしてその異物を睨んだ。

自分自身の体の一部であるにもかかわらず、心はこんなにも苦しんでいるにもかかわらず、硬く醜くそそり勃つその肉隗を忌々しく思った。

何に欲情してやがるんだ。

俺は獣なんかじゃない。

こいつが、この異物が、俺を狂わせていたんだ。

こいつが、先輩を苦しめていたんだ。

こいつが、いなければ。

こいつさえなくなれば。

彼が浴室に目を泳がせると、剃刀が視界に映る。彼の父親が使っていた鍛造刃だ。彼はその剃刀を手にすると、真下に居るその禍禍しい存在を見た。

彼は口を歪め笑うと、刃をそいつに向けた。

「タカくん、大丈夫?」

脱衣所との扉を挟んで、このみの声が聞こえた。

「っ! あ、あぁ」

このみの声に正気に戻り、彼は剃刀を遠ざける。

かなりの時間が経ったのだろう。彼のことが心配になり、様子を見にきたのだった。

彼は、掠れる声でなんとか返事を返すと「そろそろ出るよ」と扉のガラスに透けるシルエットに声をかけた。

「うん、じゃあタカくんのお部屋で待ってるね」

そういうと、影は消え扉を閉める音が聞こえた。

再び、浴室はシャワーの水音だけに戻る。

「俺は、一体何を……」

手にした剃刀を眺め、考える。

今、自分は何を考えていたのかと。

いや、今は深く思い出してはいけないと、握り締めていた剃刀を離そうとした。

「あれ?」

呟くと、彼はもう一度手を見た。

剃刀を握った手は、肌が白くなるほどに強く握られ、そして震えていて開かなかった。

「あ、あはは……」

乾いた笑いが、彼の口から漏れる。

彼はもう一方の手で力まかせに、指を一本ずつ開いていき、ようやく剃刀を離した。

「なにやってんだよ、俺」

自嘲気味に笑いながら、棚に剃刀を戻した。

「ふぅ、このみに心配かけちまったな」

彼は洗面器にお湯を溜め顔をしっかり洗うと、流れ落ちてくるお湯をそのまま口で受け止め、繰り返し口を濯いだ。

そして、今一瞬駆られた衝動を拭い去ろうと、一気に冷水を身体に浴びせた。

少しずつ明瞭になってくる頭を巡らせる。

このみに心配をかけてばかりじゃいけない。

鏡を見ると、目は充血して顔色も青白くなっていたが、こればかりは今すぐ如何こう出来るものではなかった。

彼は鏡に向かって、今出来る精一杯の元気な笑顔を作ると、「よしっ」と気合を入れた。

そして「河野貴明、しっかりしろ」と、両手で頬をパンっ叩き、自分自身に喝を入れる。

そして、このみの待つ部屋へと向かっていった。

「レモネードでありますよ」

貴明が自分の部屋に戻ると、このみはにっこりと笑い、湯気の立つカップを差し出した。

「へぇ、暖まりそうだな」

彼はカップを受け取り、ベッドに腰掛ける。そして、舌先で熱さを確認しながら口にした。温度は、彼好みの熱さになっていた。貴明の好みを知る、彼女だから出来る心遣いだった。

「甘くて酸っぱくて、優しい味だな。美味しいよ」

貴明はこのみに微笑みかけると、彼女もにまっと笑いながら自分のカップから一口飲んだ。

「えへへぇ、美味しいよね」

彼女の嬉しそうな顔に、彼の表情もほころび「あぁ」と笑顔で返していた。

「クラスの桂さんから教えてもらったんだ、この必殺レモネード。お母さんからの直伝なんだって。なんでも『象でもイチコロ』の威力があるって」

思わぬ言葉に、彼は驚いた。

「ぶっ、ぐ、げほっ」

彼は思わず口に含んでいたレモネードを、吹き出しそうになった。なんとか必死にこらえたが、変なところに入ったらしくむせて咳き込んでしまった。

「タ、タカくん、大丈夫っ?」

このみは慌てて、彼に駆け寄り背中を擦った。

「なんだ、その物騒なネーミングと曰の代物は」

少し落ち着いた貴明は、カップの中身と隣に座わったこのみを何度も見比べた。

「桂さんがね、お母さんに作り方を教わる時に聞かされたんだって。大切な人に元気になってもらいたいときに作って上げなさい、って。どんなに元気のない人でも象でも、イチコロで元気なるんだって」

疑いのない素直な笑顔で、このみは彼に説明をした。イチコロの使い方を間違えているような気がしないでもなかったが、彼は理解した。

「うちのお母さんに話したら『女には誰でも必殺技の一つや二つあるのよ。お母さんにだって必殺カレーが有るんだから。今度、このみにも教えてあげるわね』って言ってたよ。そうだっ、教わったら私がタカくんに作ってあげるね」

そういって、このみは満面の笑みを彼に向ける。

どうやらこんなたわいもない話も、彼女なりに精一杯貴明を元気付けようとしてのものだった。

その気持ちが、彼には嬉しかった。

「イチコロで元気か。ありがとな、確かに元気になれたかも」

貴明は御礼を言いながら、このみの頭を撫でる。

その感触に、このみは目を細めながら気持ちよさそうにしている。そして彼女の心は、幸せという感情で満たされていった。

「タカくん、元気になってよかった。タカくんが元気だと、このみも嬉しいよ」

そういって、貴明の顔を見つめる。彼女の表情はとても穏やかで、そして優しげだった。その姿を見た貴明は、自身の心も優しく穏やかになっていくのを感じた。

「もう一杯もらえるか」

貴明がこのみにカップを差し出す。

「うんっ」

彼女は立ち上がり、部屋の真中に置かれたガラステーブルに近づいた。テーブルの上には、魔法瓶のポットともう一つカップが置かれていた。

このみが貴明から受け取ったカップに、ポットからレモネードを注ぐと、湯気とともに部屋にはレモンのいい香りが漂った。

「はい、どうぞ」

カップを彼に手渡すと、続けてもう一つのカップにもレモネードを注ぎいれる。そして、大事に両手で包み込むようにして、彼の隣へと戻ってきた。

「えへぇ、いただきます」

それから二人は無言のまま、横に座ってレモネードを飲んでいるだけだった。互いに言葉を交わすこともなく、しかし互いのことは意識しながら。

二人のカップがどちらとも空になってから、どのくらいの時間が経ったのだろう。二人はカップの淵を撫でたり、意味もなく揺らしてみたり、そんなことをしていた。

貴明が時計を見ると、時刻はすでに二十六時を回っていた。いいかげん帰らないと、このみの家族が心配するだろうと、彼女に帰るように声をかけようとしたときだった。

そのとき、彼の目の前のこのみが、ふわぁと眠そうに目を擦り小さくあくびをした。

「タカくん、もう眠いから今日はここで寝るね」

そういうやカップをテーブルに置き、ベッドの掛け布団をめくると、もぞもぞともぐりこんでいく。

このみの予想外の行動に慌てたのは、貴明のほうだった。

「おいっ、このみ。こんなところで寝るなって。俺の寝る場所がなくなるっ。それに、家に……」

貴明が言いかけているところで、彼女はもぐった掛け布団から頭をひょっこり出すと、彼ににっこりと笑いかけた。

「今日はタカくんの傍に居てあげるよ。だから、タカくんも安心して眠っていいよ」

それだけ言い、最後に「おやすみ」と告げると、彼女はまた掛け布団にもぐってしまった。

「ったく、勝手な」

そういいながらも、貴明は感謝していた。

このみの、いつもの彼女にしてみるとちょっと強引なやり方に、今夜は助けられていた。

間違っても自分からは言えなかった。今、傍に、誰かに居て欲しいなどと。

貴明が布団にもぐりこむと、ふわりと甘い香りが立ち昇った。

布団の中は、このみの体温で少し暖かくなっていた。そして、彼女の香りが立ち込めていた。彼のよく知っている、幼馴染のこのみの香りだ。

親しいこのみが傍にいてくれる。今の彼には、なによりの安心感であった。彼は、彼女の温かさを感じていた。

傍に誰かが居てくれることの安堵感。

胸が温かくなるのを感じる。

しかし突然、チリッと胸の奥底で何かが焦げるような爆ぜるような痛みを覚える。

「くっ!」

痛みのあまり、声が漏れる。

「どうしたの、タカくん? どこか痛むの?」

声に気がついたのだろう、このみが彼を心配そうに覗き込んでいる。

「いや、なんでもないから」

それだけ言うと、貴明はこのみに背を向け、自分の胸に手を当てて、痛みをやり過ごそうとした。

しかし、痛みは一向に治まらなかった。むしろ、激しくなる一方であった。痛みのあまり、無意識に涙が流れる。

身体を硬くし、彼は痛みに耐えていた。得体も知れず、訳のわからない痛みが、彼を襲っていた。

そんなとき。

背中に感じる温かさに気がついた。

そしてその温かさが、徐々に胸の痛みを和らげていくのを感じる。彼はその温かさの源を、ようやく理解した。

「このみ、おまえ……」

背中に両手を添え、肩のあたりに額を押し付け、このみは貴明に寄り添っていた。彼女は、貴明の痛みが消えるようにと、無言のまま強く祈っている。

「タカくん、私が居るから。私がついてるから。だから、大丈夫だから」

そう彼の背中越しに、語りかける。

彼女から流れ込む温かさに、痛みは徐々に薄れていく。その時、彼はこの胸の痛みの理由を知った。

この痛みは、人の温かさを失った痛みなんだと。欠けてしまった心の空洞が、温かさを欲して叫び軋んでいるのだと知る。

時折何かが刺さるように、胸が痛んだ。

その痛みは、彼が忘れてはいけないもの。

彼がしっかりと痛みを受け止め、覚えていなければいけないもの。

なぜならその痛みは、彼のものではないからだ。彼以外の誰かの痛みに、共鳴しているのだから。

だからそれは、彼とその誰かとで、埋めていかなければならないものだった。二人で埋めなければ、決してその誰かは救われないものだった。

しかしそれも。彼の心の痛みだけは、このみの温かさに満たされ消されていく。

徐々に彼は痛みを感じなくなっていった。温かいものに包まれ、穏やかに彼の心は落ち着いていく。

「このみ、ありがとう」

そういい、貴明は彼女へと身体の向きを変えた。

彼の胸元に、このみの息がかかる。

彼の鼻先に、このみの髪が香る。

そして腕の中に、このみの暖かさが伝わる。

「タカくん、暖かいね」

このみが寄り添う。

貴明の胸に、寄り添い頬を摺り寄せる。揺れる髪から、甘い香りが新たに立ち昇る。

「あぁ、暖かいな」

貴明は、擦り寄るこのみをそのままに、そっと頭を撫で始めていた。心地よい、とても心地よい時間だった。

二人の間に、すでに距離はなかった。

幼馴染という壁は、気がつくともう何処にも見当たらない。

貴明本人は、気が付いているのだろうか。女性が苦手という彼が、このみを抱きしめているという今の状態に。

そしてこのみは、ようやくこの場所に来ることが出来たと、泣きたいくらいに嬉しい気持ちを抑えながら、じっと貴明の体温と心音を感じていた。

「タカくん、わたし…」

このみは彼の胸に当てていた手を、徐々に上へと滑らせていく。そして両手で貴明の頬に触れ、彼の顔を優しく包み込んだ。

「このみ、おまえ……」

彼の言葉をさえぎるように、このみは貴明の唇を指で抑えると身体をずらしていく。そして、貴明の顔のすぐ前に自分の顔を近づけた。

「タカくん……」

このみは彼に呼びかけると同時に、彼の頬に残る涙の跡を舐めとった。

いままでに感じたことのない感覚に、貴明の身体が小さく跳ね上がる。

「お、おいっ、このみっ」

貴明は彼女を止めようと、身体を逸らそうと動いた。しかし彼女は「じっとしてて」と言って彼の動きを押さえると、舐めることをやめなかった。ゆっくりと優しく、彼女は貴明の頬を舐め続けていた。

貴明はなすがままに、彼女の舌が自分の頬を舐める感覚に身をゆだねてた。

「えへへ、タカくんのほっぺ、しょっぱいよ」

このみは顔を少し離すと、彼に向かって照れくさそうにそんなことを言った。彼女の顔が赤く上気しているのは、誰の目からでも間違いなかった。それは、貴明の目にもはっきりとわかった。

彼自身も、呼吸が荒くなっているのを感じる。

鼓動が早く、高鳴っているのを感じる。

身体全体が熱を帯び、火照っていくのを感じる。

「タカくん、わたしね。タカくんのことなら何でもわかる。だって幼馴染なんだもん。だからね、タカくん」

そういい、このみはその曇りのない輝く瞳で、貴明の瞳を真っ直ぐと見つめる。

「わたしがタカくんの、辛いこと全部舐めとってあげる。わたしがタカくんを、幸せにしてあげる」

彼女の顔が、再び貴明の顔に近づく。

彼は逃げることなく、近づく幼馴染の顔をじっと見つめていた。

そう。

気がついたときにはずっとそばにいた、一番身近な存在。

そして、大切な存在。

「タカくん、大好きだよ」

このみはゆっくりと近づき、自らの唇を貴明の唇に重ねた。

貴明は唇から熱く流れ込み、身体中に広がっていく彼女の想いを、感じるままに受け入れた。

彼はこのみにまわした腕に力を込め、出来る限り彼女を抱き寄せた。

彼女を離すまいと。彼女から離れまいと。

「このみ……好きだ」

貴明はありったけの力と気持ちを込めて、このみを抱きしめる。

このみも、彼の気持ちにこたえるように、しっかりと抱き返す。

二人の心と身体は、この日初めて一つとなった。

第三章

抱きしめて

一体どうして、こんなことになったのだろう。

あの場から駆け出した脚も、徐々に遅くなり、その歩みは引きずるようになっていった。

足は次第に鉛のように重く感じる。

しかし、立ち止まることなく進みつづけていた。

間違いだった。彼が私のことを好きだなんて、そんな風に考えることは間違いだった。

好きにならなければ失うこともない。初めから何もなければ、始まらなければ、失うことなどない。そうすれば、こんな痛みは感じないで済むのだと。判っていたはずなのに、一人で居ようと心に決めたはずなのに。

夢を見た自分を呪った。こんな想いに駆り立てた彼を呪った。

彼を奪われた少女の「戦え」というけしかけに乗った自分を呪った。こんな結末に向かわせた彼女を呪った。

自分の存在も含め、世界の全てを呪った。

こんな世界、今すぐ終わってしまえと呪った。

彼女と世界との間には、徐々にまた厚い殻が作られていく。世界の全てを、拒絶していく。

気がつけば彼女は学園の前にいて、門に手をかけたまま立ち尽くしていた。ぼんやりとしたまま、なにをすることもなく、ただその場にいた。ひんやりとした金属の感触が、彼女の意識を呼び戻す。そして彼女は、なぜ自分がここにいるのかを思い出そうとしていた。

ただの偶然ではない。

世界の終わりを願った少女が向かった先が、この学園であることには、なにかきっと理由があるはずだった。この学園の中に、理由が。

しかし今その学園への入口は、重い門扉で固く閉ざされていた。何人も入ることを許さない、強固な拒絶を示して。

彼女はそっと、門扉に手を添える。

「…………」

感じるのは、冷たい鉄の感覚。

その手は、温もりを求めていたのに。

今彼女の目の前にあるのは、冷たく物言わぬ鉄の塊だった。

彼女は思う。

自分はこの世の全てから、見捨てられていくのだと。彼女の周りのもの、全てから拒絶されていくのだと。

世界を呪った。

その結末が、その結果が、今自分の身に降りかかっている、この現実なんだと。

門の向こうに見える校舎は、月明かりに照らされてぼんやりと浮かんでいる。昼間とは違う、色彩を持たない、色あせた世界。今この目に映る世界が、自分のいられる唯一の世界なんだと。

思い知った。

もう夢などみない。

もう誰も求めない。

私は、あの輝く世界の住人ではない。

私は、心に強固な殻を纏い誰をも受け入れない。

手に伝わる門の冷たさが、彼女を次第に凍えさせていく。身も心も、冷たく硬く凍えていく。

彼女の思考は、停止する。

彼女は再び、門に手をかけたまま立ち尽くした。

冷たさに、感覚は麻痺していく。

凍えゆく身体は、時間の流れすらも感じなくなっていく。彼女は、身じろぎ一つすることなくその場に固まっていた。何かきっかけがなければ、永遠にそのままでいたことだろう。そのくらい、彼女の精神は憔悴しきっていた。

おそらく時間は、すでに日付が変わってしまった頃だろう。そんな時、独特の金属音が耳に響く。

彼女はその音に驚き、門から一歩離れると、音のしたほうにゆっくりと視線を向けた。

大きな門の一部。小さく扉になっている部分が、油の切れた蝶番の軋む音とともにゆっくりと開いていった。

彼女は、開いた扉に目を凝らす。

扉が自然と開くはずがない。この扉は常に施錠されていて、必要があるほんの短い時間以外開かれることはなかった。

彼女は中から、誰かが出てくるのではないかと身構えた。こんな夜更けの時間に、校門の前でぼんやりと立っていれば、不審に思われ何か言われても仕方がない。

しかし、一向に人が出てくる気配はなかった。そして門の隙間に目を凝らしてみても、人影は見当たらなかった。誰一人居ないにもかかわらず、扉だけが学園へと誘うかのようにゆらゆらと動いていた。

彼女は警戒しながらも、開いた扉へと近づく。

目の前に立つと、わずかな軋みの音を立てながらゆったりと扉は揺れている。

その開かれた領域は、暗く沈んだ学園の風景を一部分切り取り彼女に見せていた。その見えている部分に視線を動かしていくと、見覚えのある窓が一つあった。彼女がいつも学園に足を踏み入れるときに一番に見、帰るときに振り返り最後に見る窓。この世界で唯一、自分の居場所なのかも知れない場所。

彼女は思い切って一歩を踏み出すと、扉をくぐり学園の敷地に入っていった。

夜の学園は、昼間とは全く違った顔をして彼女を迎え入れた。生気にあふれた、開放的で活動的な空間である昼とはまるで違っている。夜の学園は陰気に淀み、閉鎖的で排他的な空気は、近づくものを押し返そうとしている。学園の噂話でよく幽霊騒ぎが出てくるのも、なるほどと納得の風情だった。

彼女はそのまま歩みを止めず、確実に校舎へと近づいていった。

毎朝の通学のように。

彼女は何の気負いもなく、真っ直ぐに向かっていく。なぜか、誰かに見つかる気はしなかった。ただ一つの場所を目指して、行動していた。

彼女は、昇降口まで行くと全ての扉を見渡した。この扉も普段であれば全てが施錠されており、こんな時間にそのまま入れるはずはなかった。

しかし見渡した扉のうち、一番遠く見える扉が不自然に揺れていた。門と同じで誰かが居るわけでもなく、ただ扉だけが動いている。

その扉の揺れが、月の光に照らされて時折光る。そしてそのわずかな輝きは、ゆったりと案内灯のように点滅してみえた。彼女は迷うことなく、その位置に向かい扉を引き開けた。

耳が痛くなるような静寂が、建物内にはあった。

同じ形の下駄箱が、幾つも等間隔で並ぶ。

平日の朝には大勢の生徒が集い、挨拶をし活気に満ちた場所であろうと想像がつくが、こんな夜更けの誰も居ない状況では、陰気になっても仕方ないのかもしれなかった。

彼女は自分の下駄箱に向かうと、上履きに履き替え靴は持ったまま階段を上がり、先ほど表から見た部屋へと向かっていった。

三階まで階段を上がっていく。床と上履きのすれる音が、廊下や階段室に反響している。余りの静けさに、わずかな音も耳に大きく聞こえていた。

彼女は出来るだけ静かに、出来るだけ慎重に足を運ぶと、一つの扉の前に立ち止まった。

扉の上にある黒い札には、薄明かりの中ぼんやりと白い文字で「生徒会室」と書かれているのが読み取れた。彼女の視線の先、目的の場所は、この部屋であった。

彼女は小さな鞄から、何か見慣れぬ生き物のマスコットのついた鍵束を取り出すと、その中の一本を鍵穴へと差し入れた。鍵を回すと、奥でカチリという音がし無事に開いたことを知らせる。

扉に左手を掛けると、音を出来るだけ立てないようにそっと横に引いた。

いつも見慣れた部屋。授業のある日は毎日、それ以外の日も大抵の場合は訪れている部屋。そこは学園の一室というより、彼女の為にある部屋だった。むしろ自宅にある自室よりも、彼女にとっては聖域と呼べる、城のような存在だった。

彼女は、部屋に身を滑り込ませると再び扉をゆっくりと閉めた。そして、内側から施錠する。

無意識のうちに緊張していたのか、ほっと一息肩で息をすると彼女は部屋の奥へと足を進めた。

部屋の中央に置かれた会議机の一番奥にある椅子が、窓から入り込む月明かりに照らされていた。

そこが彼女の指定席。久寿川ささらの指定席。

生徒会長である彼女が、いつも座っている席だった。彼女はいつも通りそっと椅子を曳くと、ゆったりと腰を掛ける。そして、部屋を中を見渡した。

いつもの見慣れてた部屋は、月明かりのせいか少し違って見えた。モノトーンで物悲しく見える部屋に、昼間見ている光景を重ねてみた。そうすれば、少しは明るく見えるだろうと。

クラス委員の会議があるとき。

一人でぼんやりとしているとき。

彼と二人で過ごしていたとき。

彼女は浮かんだ映像に驚き、一瞬身体を硬くすると頭を振り思考を切り替えようとした。しかし一度浮かんだ顔は、一向に消えてはくれなかった。彼女は、肩を落とすと再びゆっくりと視線を上げた。そして、ある一点をじっと見つめた。

その視線の先には、一つの席があった。

そこは、彼の指定席。河野貴明の指定席。

彼女の心に入り込み、学園のみんなから「副長」と恐れられていた彼女を変えていった彼。

世界を拒絶して頑なに生きようとしていた彼女を、脆く壊れやすい女の子へと戻した彼。

ささらは立ち上がると、彼の席へと近づいた。

椅子の背後に立つと、ゆっくりと背もたれを撫でる。そこに彼の背中があるかのように。彼の背中を撫でるかのように。

彼女は椅子に腰掛ける。彼の膝の上に座るかのように。頭の中で思い描く、膝の上に座り背後から彼に抱きしめられることを。

ほんのりと背中やお尻が、温かくなる気がした。

なんの変哲もないただの椅子なのに、彼が居るような気がした。彼に抱かれているような気がした。だから温まる気がした。彼女は目を瞑り、そんな妄想に身をゆだねる。

彼女がゆっくりと目を開けると、机の上に置かれたペンケースが視界に入った。そのケースは、貴明がいつも使っているものだった。昨日の打ち合わせのときに使ったまま、仕舞い忘れて帰ってしまったのだろう。

ささらはケースを手に取ると蓋を開け、中から一本ペンを取り出した。指先で、そっと軸をなぞる。昨日、貴明が使っていたペン。彼女の言葉を書きとめていたペン。

彼女はもう一度、ペンを指先で撫でる。ささらはなぜか、指先が温かくなるのを感じた。触れている部分の肌が、熱を帯びていくのを感じる。彼女は、貴明に触れているような気がしているのだろうか。

ぼんやりと、熱を帯びた視線でペンを見つめる。 彼女は手にしているペンをゆっくりと口元に持っていくと、そっと唇を当てた。

その瞬間に、触れた唇が熱くなるのを感じた。

「河野さん……貴明さん……」

熱に浮かされたような、少し上ずった声で彼女は彼の名を呼んだ。目の前には居ない、数時間前に彼女を拒絶した彼の名を呼んだ。

ささらはもう一度ペンに唇を寄せると、熱のこもった吐息を漏らす。そしてペンを舌先で一度舐めると、手を徐々に下にずらしていった。

「ささら、もうがまんできないの……」

呼吸も荒くなり、しゃべり方もつたなくなっていくささらは、彼の身代わりを使って身体を慰めはじめていった。手をスカートに差し入れると、下着の上からペン先で秘所を刺激しはじめた。

「ささら、いけないコなの、こんないやらしいの」

彼女はペン先を自分の秘裂にあてがい、ゆっくりと上下になぞらせていく。その刺激は、彼女の身体をさらに上気させる。触れたところは次々と火がつき、身体の奥底から熱く燃えてるのを感じる。

「あぁ、貴明さんが……抱きしめてくれるのぉ」

片手は彼女の豊満な乳房にあてがわれ、自分の心地良いツボをおさえながら、徐々に力を込めて揉みしだいていく。服の上からもわかるほど勃った乳首をつまみ、擦り合わせる。彼女はその刺激をさらに強めるようにと、指先にさらに力を込めていく。

「貴明さんが私を、私を抱いてくれてるの」

彼女の意識はすでに、肉体への刺激へと移っていた。彼からの行為で、自分が喜びを感じているのだと、そう思いながら。

スカートに差し入れた手は、貴明の身代わりのペンをしっかりと握り締め、彼女の秘所を責めつづけていた。秘裂に沿ってあてがわれ、左右に細かく揺り動かした。ささらの身体が、痙攣する。

「だめぇ、貴明さんが、ささらのいやらしいところ一杯いじってくれるのぉ」

甘い声でささらは、悶え狂う。

すでにショーツは、ささらの愛液をたっぷりと吸い込んでいた。その生地の上からでもわかるくらいに勃起したクリトリスを、彼女の持つペンは執拗に責めたてている。何度も何度も、その突起を弾くように動かしていく。その動きに合わせて、ささらの身体は幾度も跳ね上がる。もう、彼女の理性などないに等しかった。彼に愛してもらえなかった彼女の心は、すでに壊れていた。自らの行為で、その渇きを癒すことだけに没頭していった。

布越しの刺激にまどろこしくなり、彼女は腰を浮かせショーツを下ろすと、手にしたペンを秘裂にゆっくりと刺し沈めていった。その押し開き挿入されていく感覚に、彼女の身体は小刻みに震えていた。満足げな微笑を浮かべながら。

「ささら、いやらしいの。いけないコなの。だから貴明さんので、ささらのいやらしいとこいっぱいにしてもらうのぉ」

ささらは椅子の上で大きく脚を開いたまま、差し入れたモノを感じていた。しかし手は落ち着かず、我慢できずに腰が動き出すのにあわせて、抜き差しをはじめていく。時折角度を変え、中をかき混ぜるようにし自分の感じる場所を探りながら快楽の虜となっていった。

徐々に腰と手の動きは速くなり、身体も震えが止まらなくなっている。

「ダメぇーっ! ささら、いっちゃうのぉっ」

ささらは太ももを、せわしなく擦り合わせている。だけど彼女の手の動きは止まらず、差し込まれたモノで執拗に秘裂をかき混ぜつづけた。

「貴明さん、貴明さん…ささら、いく…のっ」

何度も、彼の名前を呼び続け、ささらは最後に大きく身体を跳ね上げ反り返ると、ぷっつりと糸の切れた人形のように、机に突っ伏した。

彼女の疲労は、極限まできていた。

「貴明さん、やっぱり私は。貴方がすきなの……」

そう呟くと、彼女はそのまま眠りについた。

彼に抱かれたという、妄想の記憶を胸に抱いて。

第四章

あなたと……いたい

貴明は学校へ行く身支度を念入りに済ませ、玄関を出た。そして隣の家、このみの家に向かった。

「急に変わるもんでもないか」

彼はそんなことを呟きながら、柚原家の玄関先に立つとインターフォンを押した。

奥のほうでベルの鳴る音が聞こえると、それから一歩遅れて「はーい」という声がする。

玄関の扉を開け土間に立っていると、奥から春夏さんが出てきた。このみの母親なのだが、まちがっても彼女を「おばさん」などといってはいけない。そのことを身を持って知っている貴明は、いつも「春夏さん」と呼んでいた。というよりも、そう呼ぶように言われていた。

「このみ、起きてますか」

彼女の寝坊は今に始まったことではなかった。

「さっき支度してたみたいだから、もうそろそろ出てくるんじゃないかしら」

「えぇ! このみ、起きてるんですか」

春夏の言葉に、貴明は驚く。

「そうなのよ、なんだか急に『ちゃんと起きて準備しないとタカくんに……』って言ってね」

そういうと、春夏は貴明のことを意味ありげな視線でじっと見た。

「ふぅん、そういうことね。そうだったのね」

一人納得している春夏に、不審げな視線を向けると彼女は「いいのよ、気にしなくて」といって、それ以上話が進まないように彼を制した。

納得がいかない彼であったが、丁度そのときこのみが玄関先に出てきた。

「お、おはよう、タカくん」

なんだか照れくさそうに、このみは貴明を上目使いに見る。そんな仕草に、貴明も意識してしまったのか「お。おぅ。おはよう」と何かいつもと違ったぎこちない返事をしてしまっていた。

その光景を見ていて一人頷きながら、嬉しそうな顔をしている春夏であった。

「じゃぁ、二人仲良く行ってらっしゃい」

「「っ!!」」

春夏の言葉に、二人は過剰に反応して声すら出ずにびっくりしていた。顔を見合わせて、なんでばれたんだろうと考えてみた。が、思い当たる節などが有るはずもなかった。

「ふふっ。ほら、早く行かないと遅刻するわよ」

と、あたりまえのことを言うと、二人を玄関から追い出すように学校へと向かわせた。二人の事をずっと見てきた、ましてや母親が、娘と幼馴染の彼の変化に気がつかないわけがなかった。

「しっかりやりなさい、二人とも」

そう玄関の向こうに出て行った二人に、小さく声を掛けると、春夏はまた家事の続きをするためにキッチンに姿を消した。

このみと貴明は二人並んで、いつもの通学路を歩いていた。なんとなく、落ち着かなく居心地の悪い、むずがゆい感じが二人の間には流れていた。

「なんだか、変な感じだな」

そう声をかけたのは、貴明のほうだった。彼女は「うん、そうだね」と照れくさそうに答えると、横に歩く彼を横目で見た。貴明はなんとなくなのだろうが、このみから意識を離すように空を仰ぎ見ながら歩いていた。

このみは一瞬躊躇したが、思い切って決心すると、「えいっ」といって貴明の腕にしがみついた。

「なっ、どうしたっ」

慌てて離れようとする貴明の腕を、このみはがっちりとつかんで離さなかった。

「だって、タカくん。なんだかよそよそしくて」

そうやって、腕をつかんだまま貴明のことを見上げていた。

「それは、その。まぁあれだ。とりあえず手を離してくれよ」

貴明はしどろもどろになりながら、なんとかそれだけをこのみに言った。彼女はちょっと考えると、腕をつかむ手を離し貴明の掌を握った。

「これなら、許して欲しいな」

このみはねだるように、貴明に言う。彼女の視線と言葉に、彼は「まったく、しょうがないなぁ」といいつつ、彼女の掌を握り返した。

このみは満面の笑顔で、「ありがと、タカくん」というと、機嫌よく学校への道を歩き始めた。

結局のところ、あの夜以来二人の距離がかわったことは間違いはなくて。ただ、もう何年もやってきた「幼馴染」としての接し方と違うことへの戸惑いが、大きく出ているのかもしれなかった。

だからこそ、あの夜から初めて出会う今朝は、二人にとっては本当の意味での始まりだった。

二人は手を繋ぎ、そのまま学園へと向かっていった。

もう桜の花も散り、葉の新緑が目に眩しく映る季節になっていた。もう、あと数日でゴールデンウィークであった。

「タカくん、今度のお休みって、何か予定はいってる?」

このみが聞いてくる。二人が学園に入学してはじめての大型連休である。何か予定を立てて、遊びに行きたいと思うのは、誰しもが思いつくことだろう。

「いや、特に今のところは何も考えてないけど」

そう貴明は答えると、このみを見る。

その答えを聞くや、彼女の表情はにまぁっと崩れ嬉しそうにしている。そして、何かを期待する視線で、彼の次の言葉を待っているようだった。

「まぁそうだな、どこかに遊びにいくって言うのもいいかもしれないな」

そういった彼の言葉に、握る手の力を強めると満面の輝く笑顔を貴明に見せた。

「えへぇ、嬉しいな。何処に行くかは、二人で決めようね。そのほうが楽しいよ、きっと」

そういい、このみは本当に上機嫌に脚を進めた。

貴明もその姿を見て、幸せな気分になりながら歩巾を合わせると、彼女のペースで坂を上りつづけた。

二人は手を繋いだまま、学園へと続く坂を上がっていく。周りの通学している生徒達も、ほとんどのものは気にも止めていない。

しかし、貴明とささらの生徒会での噂を知る者は、このみと二人でしかも手を繋いでの登校に、ひそひそと小声で憶測を話していた。貴明とささらが付き合っているとばかり思われていたのに、なぜこのみと仲良く恋人同士のように歩いているのかと。

その声は、二人の耳に入ることはなかったが、なにか下世話な空気が流れていた。

二人が、まもなく門に差し掛かるというとき。門の前に、見覚えのある人影があった。

その人影は、久寿川ささらであった。

彼女は坂の下をみつめて立っていた。

だれかが来るのを待っているかのように。

出迎えるように。

ささらの視線が、貴明とこのみの二人の視線と絡む。その瞬間、彼女は笑みを浮かべて近寄ってくる。

そのささらの動きに、このみは慌てて握っていた貴明の手を離した。そして半歩身を引くと、貴明との距離を置いた。

坂を降りてきたささらは、二人の数メートル前まで近づくと、足を止めた。

「河野さん、おはよう」

そういい、優しげな笑顔で貴明のことを見つめた。 その笑顔が、いつもの彼女がみせる表情とは違うことに、貴明もこのみも初めは気が付かなかった。

それに気がついたのは、その後のささらの行動からだった。

ささらは、貴明の隣に居るこのみなど、全く視界に入っていないかのように、彼だけを見つめていた。

「あの、おはよう。河野さん?」

そういい、返事のない貴明に対し、ちょっと不安げな表情をすると首を傾げた。

彼は慌てて「お、おはようございます」と返すも、あの日の夜のことが思い出されて、意識の中で距離をとろうし、対応がぎこちなくなっていた。

「えぇ、おはよう、河野さん」

また笑顔になるささら。

その表情を見たとき、二人は彼女に違和感を感じた。視線は他に向かず、貴明だけを見ていた。そしてその視線も、なぜか焦点がずれているように思えて仕方なかった。貴明とこのみの二人は、なにか嫌なものを感じた。

そんな二人とは裏腹に、ささらはじっと貴明を見つめていた。そして、再び二人に近づいた。

そしてその時、ささらは思いがけない行動に出た。

彼女の視線は、貴明に向いたまま。そのままで彼に近づいていき、そして目の前にきた時。

ささらは、いきなり貴明に抱きついた。

その突然の行動に、誰しもが驚いた。

このみは、声にならない驚きに動揺している。

貴明本人も、余りにも突然のことに、何をしていいのかもわからず、身体が固まってしまっている。

そして、通学途中の学園の生徒達も、生徒会長の突然の行動にあっけにとられた。公衆の面前で、しかも朝の通学路で、生徒会長が突然異性に抱きついている光景など、誰が見ても驚くだろう。周囲には、妙なざわめきが広がっていった。

当事者の中でいち早く動けたのは、このみだった。

このみは貴明の制服の裾を、何度か軽く引いた。

その刺激に、貴明も驚きから何とか立ち直り、抱きついているささらに声をかけた。

「く、久寿川先輩。一体、何を」

彼には、それだけ言うのが精一杯だった。

ささらはそれには答えず、抱きつく腕の力をさらに強くし貴明に密着する。

「あぁ、河野さん、貴明さんの匂いだわ」

貴明の胸元に顔をうずめたささらは、うっとりとした声でそんなことを言うと、深呼吸をしているようだった。全身に、貴明が広がっていくようにと。

貴明は、戦慄した。これは、いつもの先輩ではない。それだけは間違いなかった。行動といい、彼のことを「貴明」と名前で呼んでいることも。

一体何が起きているのか、理解できない。

理解は出来ないが、このままではまずい事になると、少しずつ冷静になっていく頭は知らせていた。

「せ、せんぱいっ」

貴明はささらの両肩をつかむと、むりやり自分の身体から引き離した。

「えっ?」

引き離されたささらは、驚きと寂しさとが入り混じった複雑な顔で貴明を見上げた。そしてその顔は徐々に頬が膨らみ、拗ねた表情へと変わっていった。

「貴明さんの、いじわる」

上目遣いに貴明の事を見ると、ささらはそんなことを彼に言っている。

彼女の行動は、狂っていた。

「ねぇ、ささらのこと、嫌いになったの?」

彼女は再び彼に近づき、貴明の胸にすがった。そして、甘い声で貴明に問いかける。

「せん……ぱい?」

彼は、再び彼女を引き離すことが出来なかった。 彼女の行動が狂っているのだとしたら。その狂気に駆り立てたのは誰だと考える。

それが、紛れもなく自分だと言うことに気がつかないほど、彼も愚かではなかった。貴明は、そのことを思うと、ささらに対し辛く当たることは出来なかった。貴明は身体を強張らせながらも、ささらの行為をそのまま受け入れていた。

「久寿川先輩、おはようございます」

そこに、何も出来なくなっていた貴明に代わって、このみが声を掛け割って入ってきた。貴明とささらの真横に立つと、ささらに向かって挨拶をした。

ささらはゆっくりと、このみへ顔を向ける

「おはよう、柚原さん。貴明さんをここまで送って下さってありがとう。あとは私と一緒にいきますから、あなたはここまでで結構よ」

その声と表情は、今しがたまで貴明に向けていた柔らかいものとはまるで違っていた。学園の生徒から恐れられていた、副長と呼ばれていた時代の冷たい声と厳しい表情で、このみの事を見ていた。

ささらは、このみを冷たい目で睨んだ。

しかしすぐに興味を失ったかのように、このみを視界の外に追いやった。そして再び柔らかい表情に戻ると、ささらは貴明に顔を向けた。

彼女のあからさまにおかしい行動に、貴明もこのみもどう対処していいのか判らなかった。唯一判っていることは、ささらには貴明の事しか目に入っていないということであろう。

貴明は考える。

どうすればいいのかと。

何をすればいいのかと。

「貴明さん、何も言ってくれない。ささらのこと、キライになったの?」

思考をめぐらせている彼に、ささらは寂しげに涙混じりの声で問い掛ける。

貴明は困惑した。一体今の彼女に何を言えばいいのか、いくら考えても思い浮かばない。

彼は、黙り込んだままでいる事しか出来なかった。

「貴明さん……」

ささらは彼の名を呼ぶ。彼女を見ると、瞳から幾粒もの涙が流れ落ちていた。

「私じゃダメなの?」

彼女の問い掛けに「いや、そんなことは……」と彼は口篭る。

「……ダメ? 」

再びの問いかけに、彼は何も返せなかった。

「……ダメなんだ」

少しの間が有った後、ささらは落ち込みうなだれて言った。

その一言に、貴明の心は痛んだ。

しかし何をすればいいのかは、いくら考えをめぐらしても、どうしても思いつかないでいた。

「タカくん、ダメだよ。久寿川先輩を泣かしちゃ、ダメだよ」

そう貴明に微笑みかけながら、このみはささらのほうに向き直る。

「久寿川先輩、後はタカくんをお願いします」

貴明はこのみの突然の言葉に、あっけに取られる。

「何を言ってるんだ、このみ?」

貴明には一体、彼女が何を言っているのか、何を考えているのか皆目がつかなかった。

「だって、タカくんは久寿川先輩の事が好きなんだよ。先輩だって、タカくんの事が好きで」

このみは貴明に向かい、瞳に隠しきれない悲しさを浮かべながら、精一杯言葉を続けた。

「二人は、お似合いの、恋人同士なんだから」

その言葉に何よりも驚いたのは、貴明だった。あの夜、ふたりで過ごした時間はなんだったのか。今朝の照れくさい感覚はなんだったのか。

違う。

貴明は、このみの言葉を受け入れられなかった。

このみは、貴明がささらを好きだったことを知っている。そして、狂おしいほどに貴明のことを好きだというささらに、身を引こうとしているのだ。

そんなのは違う。

貴明は心の中で、彼女の言葉を否定する。

今の二人の気持ちは、そんなことじゃない。そう貴明は信じていた。だから、自分の想いを口にした。

「俺は、このみを抱いた。俺は、このみの事が好きなんだ」

自分自身にも言い聞かせるかの様に、彼はしっかりと言葉をかみ締め、このみを見つめ言い切った。

ささらの中の何かが、壊れていく。

「何を言っているの、貴明さん。あなたは私を生徒会室で、抱いてくれたじゃない。あんなにも愛し合ったのに、どうしてっ!」

貴明には、ささらの言っていることの意味がわからなかった。

二人で愛し合った? 彼にはそんな記憶はどこにもなかった。ましてや、生徒会室でそんなことをした事など、絶対になかった。

このみは、ささらの言葉に驚きの表情を隠せなかった。その表情を見た貴明は、「違う」と一言だけ言うと、ささらに向かって反論した。

「俺は先輩と、そんなことはしていませんよ」

彼はただ、事実のみを伝えた。言い訳も、理由もない。間違いない、自分の記憶は間違いないと、彼は強く信じた。

「そんなことないわ。貴明さん、私はあなたに抱かれたの。今も思い出すだけで、ここが熱くなるの」

ささらは手を胸に当てると、抱かれた時のことを思い出しいるのだろうか。うっとりとした表情をしている。彼はいくら考えても、そんなことをした記憶はなかった。

もしあるとしたら。

彼の中である可能性がよぎった。

「先輩、それは何時の事ですか?」

貴明は、ささらに問い掛けてみた。そうすれば、何かがわかるはずだと。

「忘れてしまったの?」

ささらは寂しげな表情で、貴明のことを見つめる。

「一昨日、水族館であった後。一度貴方は私の元を離れて別れたけど、その後学園にまで私のことを追いかけてきてくれたわ。そして、貴方は私のことを抱いてくれたのよ」

間違いない。

彼女の言葉に、孝之は確信した。

彼女は自らの妄想に、囚われているのだと。

貴明は意を決して、ささらに事実を突きつける。

「それは先輩の幻です。俺が抱いたのは……」

彼は、傍に居たこのみの肩に手を回し、抱き寄せる。そして、ささらが望まない現実で突き放した。

「俺が抱いたのは、ここにいる、このみなんだ」

ささらは、力なく首を横に振る。そんなこと、聞いていないと忘れたいかのように。

「いやよ、嘘よ、嘘でしょ? 貴明さんたら、そんな冗談」

いやいやをする子供のようなささらを、貴明は真剣なまなざしで見据える。

貴明の言葉が真実だということを、彼が無言でいることでより強く彼女に伝えた。

「うそ……」

力なく貴明を見るささらは、震える声で彼に呟くように問い掛ける。

孝之はゆっくりと首を横に振り、彼女に嘘ではないと、本当のことだとしめした。

「認めない。私の全てを壊しておいて。どうして、どうしてそんなことがいえるのっ」

彼女は貴明に向かって叫ぶ。

「私は誰も入ってこられない世界に、一人で居たのに、それでよかったのに。あなたはなんども、私の内側に入り込もうとしてきた。そして、いつの間にか私に滑り込んできた」

ささらは瞳から、大粒の涙を流しながら訴える。ささらの勢いに、貴明は口を挟むことが出来なかった。

「愛することも恐れることも、もう何も怖くない。そう思えたのに。貴方が居てくれたから、私は一人きりで生きていくことから抜け出せたのに」

ささらは、貴明のことを見据えた。そして、彼に向かって手を差し出した。

「貴方がいなければ、私は生きていけないの。だから私を愛して。私と生きて。それが出来ないのなら、私を殺して。おねがい」

愛を受け入れること。

死を与えること。

彼はそのどちらも、出来なかった。

「だめだ、俺にはどちらも出来ない」

貴明はそういって、ささらの願いを拒絶する。

「また、またあなたは逃げるのね、ダメよ、貴明さん。もう逃がさないから。私をこんな風にしたのはあなたなのに。なぜ? なぜ私を見捨てるの」

ささらは悲しさに苦しんで。

再び拒絶された事に絶望をする。

「やっぱり、私はいらない子なのね」

ささらは、鞄の中に手を挿し入れる。そして中で何かを掴むと、手にしていた鞄をそのまま落とした。

ささらの手に握られていたのは、三十センチばかりの木の棒だった。彼女は鞄を捨て自由になった両手で、その棒を握り締める。そしてゆっくりと腕を広げていくと、徐々に鈍く光る金属が現れ始めた。

「パパがね、誕生日にくれたの。山や森でささらを、ささらの大事なものを守るためにって」

鞘が完全に抜かれ、ダマスカスの刃紋が美しく光る刃を見つめ、彼女は父親からもらったときの事を思い出しているようだった。

ささらは、ナイフの切っ先を貴明の胸元に向ける。

「私の大事なもの。誰にも渡さない」

ささらは構えたナイフを貴明に向けたまま踏み出し、彼との距離を一気に詰めた。

その瞬間。

貴明とささらの間に、突如飛び出してきた影があった。踏み込んでいったささらの持つ刃は、そのまま影に吸い込まれていった。

「え……?」

ささらは驚きに声を漏らす。刃が肉を引き裂き突き刺さる感触が、彼女の手に伝わる。

ささらは目の前を見る。

そこには、このみが貴明を守るように両手を広げ立ちはだかっていた。

その胸には、ささらが手にするナイフが、根元までしっかりと刺さっている。

「このみっ!」

貴明は驚きの声を上げる。

彼らを遠巻きに見ていた女生徒からも、黄色い悲鳴が周囲から幾つも起きた。

「ふふっ、ふふふ」

ナイフを突き刺したまま、ささらは笑い出した。

「そう。私達の門出を、邪魔する気なのね」

ささらは手に力を込め、深く刺さったナイフを抜く。このみの制服にできた血の染みが、一気に広がっていく。

彼女は瞬く間に、真っ赤に染まっていく。

それを見、満足げな笑みを口元に浮かべると、ささらはもう一度このみの胸に向け刃を突き立てた。

「ぁっ!」

あまりの痛みに、このみの表情がゆがむ。

ささらはナイフを抜き、数歩このみからの距離を取った。そしてこのみの、血にまみれていく彼女の姿を満足そうに眺めていた。

このみは、膝から崩れ落ちていく。

貴明は慌てて駆け寄る、膝を衝き、前に倒れていく彼女に手を伸ばし、何とか抱きとめた。

「このみっ」

貴明は、腕に彼女の重さを感じながら、声を掛ける。そして、身体を後ろに倒すと、背中を支え彼女を仰向けにさせた。

彼に抱かれている事に気が付いたのだろうか。彼女はうっすらと目を開けると、彼に微笑みかけた。

「タカ……くん。平気、だった?」

途切れる声で、貴明の心配をする。

「しゃべるなっ! 誰か! 誰か救急車!」

貴明が叫ぶ。

「よかった。無事、みたいだね」

このみが、貴明に力なく微笑む。いつもの無邪気な笑顔をつくろうとして、でも出来ずにいて。

「いいからしゃべるな。今すぐ病院に連れて行くからな」

貴明が言うと、このみはゆっくりと小さく首を横に振った。彼女は自分の死の訪れを、自然と感じていたのだった。

「タカくん、私嬉しかったよ。タカくんに、最後に愛してもらえて」

貴明は無意識のうちに涙を流す。

「このみ、やめろっ。絶対に俺が助けてやるから」

永遠の別れとも取れる言葉を、貴明は叫ぶようにさえぎる。

「タカくん、また泣いてる。ごめんね、今は舐めてあげられない」

そういうとこのみは腕をあげ、そっと貴明の頬に触れた。

「タカくん、私のこと、愛してる?」

「あぁ、愛してる。愛してるよ、このみ」

「うれしいな、タカく……」

このみのまぶたがそっと閉じていく。

彼女の身体から、力が抜けていく。

貴明の頬に当てられていた手が離れ、力を失い腕は落ちていく。

「おい、このみっ! このみ起きろっ!」

貴明は彼女を抱き寄せ、揺さぶりながら叫んだ。 制服に染みた血は、すでにこのみの背中まで回り、抱き寄せる貴明の手も、彼女の血で生暖かくぬめっている。彼が必死に何度呼びかけても腕の中にいるこのみは、動くことはなかった。

「このみ? このみぃっ!」

彼女を呼び戻そうとして、貴明はあらん限りの力を込めた声で叫んだ。自分の呼び声で、きっと起きてくれると信じて。

突如、貴明の背中が熱くなる。一点から徐々に身体全身が熱くなっていく。全身がぼうっとした熱に包まれた直後、猛烈な痛みが彼を襲った。

「っ!」

貴明は声にならない悲鳴をあげ、何が起きたのか理解ができず背後を振り返った。

「ダメよ、貴明さん。私と居て欲しいのに、柚原さんばかり相手にしてるなんて」

そこには、穏やかな微笑をしたささらが、血塗られたナイフを持って立っていた。

「だから私から離れられないようにしてあげる。私しか居ないようにしてあげる」

彼女の刃は、的確に貴明の心臓を貫いていた。

「貴明さん。あなたのことが好きよ」

ささらのその言葉を、貴明は最後まで聞くことはなかった。彼はこのみの上に折れ重なるようにして、倒れていった。

ささらはひざまづき、そして貴明を抱き起こす。そして彼の下から現れたこのみの顔を見た。その表情は痛みに苦しみながらも、どこか幸せな色を併せ持っていた。

「柚原さん、あなたには貴明さんは渡さない」

彼女は貴明を、完全にこのみから引き離した。そして貴明を胸に抱きかかえると、彼の顔をじっくりと見た。その痛みに苦しむ顔は、地獄の業火に焼かれる亡者のようだった。

「苦しかったのね、ごめんなさい。でも、あなたがわるいのよ」

彼女は、貴明の頭をなでながら語りかけている。

「だけど、これからは私が一緒よ。だから、わたしも、あなたも。もう寂しくない。くるしくない」

ささらは自分の首筋に刃元を当てる。

「貴明さん、あなたは私のものよ。永遠に……」

彼女は、ナイフを一気に挽いた。

ささらの首から、血飛沫が一気に噴出す。

まるで、季節はずれの寒緋桜が狂い咲き。

その花びらが舞い散るかのように、辺り一面を一瞬にして緋く染めていく。

「永遠に……」

ささらは貴明を胸に抱きしめる様に包み込み、彼に微笑みかけながら倒れていった。

永遠に、貴明を放さないようにと。

終章

大切な宝物

雲ひとつない青空に、一条の白い煙が立ち昇る。

冬特有の透明な青空はまぶしく、そして冷たい空気が肌を刺す様だった。ふもとの街からは、クリスマスの音楽が風に流れて聞こえてくる。

今日は、十二月二十四日。世間では、クリスマスイブと呼ばれている日だった。

少女は山の中腹の、ある場所を訪ねた。

「記憶が戻ったとき、大変だったらしいの。私、錯乱したらしくて」

彼女が呟くように告白する。

「自殺しようとしてたって、タカくんの後を、追うんだって叫んでたらしいの」

高く、消え行く煙を目を細め仰ぎ見ながら、彼女は言葉を繋いでいく。

「だけど、お母さんに怒られたの。『あなたも母親になるんだから、しっかりしなさい。そんなことでどうするの』って」

彼女は始め、母親に言われた言葉の意味が、判らなかったらしい。しかしその意味を理解したとき、彼女は目覚めてから初めて涙を流した。悲しいときですら流れなかった涙が、とめどなく流れ落ちた。

「嬉しかった、だから泣いたんだと思う。だって私、タカくんから凄いプレゼントもらったんだもん」

彼女は返事待たずに、続けていく。

「あれから、一年、経ったのね」

背中で静かに寝ている子供を、上半身をひねり前から見えるようにした。

「ね、かわいいでしょ? 今日は、この子の一歳の誕生日なの」

また、来年。

また来年、会いに来るから。

彼女は心の中で繰り返す。

「今日は帰るね、タカくんも元気にね。それじゃ、また」

彼女は、最後にもう一度手を合わせる。

「タカくん、わたし、がんばるから。タカくんの残してくれた宝物、大切にするから」

そう誓いを告げ、その場を後にした。

あとがき -postscript-

本作は2006年春に発行した合同小説本「未来の二つの顔」収録の葡萄担当分のWeb公開版になります。当時の後書きを……。

ここまでの提供は、戦術機からメイドロボまであなたの暮らしを見つめる有栖山工業、明日の未来の食を支える有栖山食品にてお送りいたしました……

生まれてきてごめんなさい。本作品の著者、有栖山葡萄です。

ここまでお付き合いいただきまして、ありがとうございます。

君望・Fateとで確実にステップアップしている、同人小説サークル神慮の機械。今回はToHeart2二次創作を出すということで、合同誌のお誘いを受けました。正直、かなり毛色も違い、小説書きとしての力量も差がある現状で、どこまでいけるか不安でしたが、どうにか完成することが出来ました。お楽しみいただければ幸いです。

もしあなたの精神が病んできたとすれば、それは私の責任ではなくさーりゃんの呪いです。日頃の行動には十分気をつけましょうね?

さて、同人を始めて初のジャンル越え、初のLeafジャンルへの参加を果しました。現在活動しているジャンルは、「君が望む永遠」(age)でして。世間的に言われている、いわゆる一つの鬱ゲースキーであります。

私の作風であり、今回の合同誌でも担当となっている「暗黒面」はことごとくキャラを殺してしまうという、作家としては最悪なタイプなのですが、死に至る精神の病といいますか、そういったものが特に好みでして。君望二次創作・薔薇三部作なども、そういった傾向の強い作品であったことを新しい読者の皆様にお伝えしておきます。

そういえば作中の、寒緋桜。皆様は、ご存知でしょうか?桜とは思えない、濃紅色の花弁が特徴の桜。普段目にしている、染井吉野の淡い色とはまるで違う存在感のある色をしています。さすがに血を連想するほどまでには、緋くはありませんが。ささら達の通う学園の制服、あのリボンの色は何処となく、寒緋桜を連想させるのですがいかがでしょうか?

桜も薔薇科。薔薇にはなぜか縁があるようですね。

最後に。お決まりの台詞では有りますが。

この本を手にし、私の作品を読んで下さった方々に感謝いたします。

それではまた、どこかでおあいしましょう。

                                         2006年04月末 有栖山葡萄 拝

「未来の二つの顔」あとがきより

ご意見・感想などは【budouのaliceyama.jp】までよろしくお願いします:)