7月10日



 学園の門へと続く長い坂の桜並木は、青々と葉を茂げらせている。 並木を登校していく生徒達の頭上では、蝉が鬱陶しいくらいに合唱 していた。 「しっかし……今日はいい天気だな」  彼は呟くと、空を見上げていた視線を坂へと戻す。  抜けるような青空を見ていると、授業など受けるのが馬鹿馬鹿しく なる。こんな日は学園裏手の丘で、眼下の街並みとその向こう、遠く に広がる海と水平線をぼんやりと眺める。そして、時折肌を心地よく 撫でる風に身を任せたい。 そんな気持ちにさせる、青く澄んだ空だ。 彼──鳴海孝之は、他の生徒たちが少し汗ばみながら坂を上がってい くのを、立ち止まり見ていた。 そして、考える。 そう、まさにエスケープ日和だ、と。  ふぅと溜息をつき、ゆっくりと坂を上がり始めようとした。  と、そのとき。 「朝からなに不埒な事、言ってるのよ」  背後から聞こえた声に、ゆっくりと振り返った。彼には声の主が誰 だか、わかっていた。 「なんのことかね? 速瀬君」  まさに神出鬼没。予想を常に上回る彼女の行動に、いつも翻弄されて いる鳴海であった。 「何が『エスケープ日和』よっ。まったくどうしようにも無いわね」  お約束のボケをやってくれる、彼である。 「声、出てましたか?」  呆れ顔で見る速瀬に、鳴海は淡々と答えていた。  奇跡的にも早く登校していた彼と、それに遭遇した彼女との、朝の軽や かな応酬である。 「そんな見事なお約束、朝っぱらからやらないでよ。聞いてるこっちのほう が、疲れるじゃない」  速瀬は、ハァと大げさに肩を落とし溜息をつく。そして、数歩軽い足取り で鳴海に並んだ。彼も再び向き直ると、二人は並んでゆっくりと校門に向かって 歩き始めた。 「にしたって。なんで、速瀬がこんな時間に居るんだ? もっと早い時間に、 登校してるんじゃなかったのか?」  鳴海は彼女を横目に見ながら、別の話題を話し始めた。 「孝之こそこんな時間に、どうしちゃったのよ。予鈴まで後二十分以上あるわよ。 折角のいい天気、台無しにしないでちょうだいよね」 速瀬は悪態とは裏腹に表情に笑みを浮かべ。 心なしか嬉しそうに鳴海に視線を向けた。 「確かに、俺としてもこの天気を悪くするのは、賛同しかねるが。 まぁ実際、この暑さの中走りたくないからな」  速瀬はくすっと笑うと、鳴海より数歩先に進むと振り向いた。彼女の腰まである 長いポニーテールが、空中を泳ぐ。澄んだ青空に艶やかな深い青色が映え、 きらきら輝きながら流れていた。それはまるで生き物、さながらイルカが 泳いでいるかのように鳴海の目に映る。速瀬の姿に一瞬心奪われ、彼の鼓動は ひとつ大きく鳴った。 「そうよねぇ。こんなに天気がいいと走るより、パーっと泳ぎたくなる気分よね」  速瀬は目を輝かせながら、滑らかに手を頭上に伸ばす。くるりとクロールのように 手を回し、その場で気持ちよさそうに泳いで見せた。しなやかなその姿に鳴海は、 鼓動が早くなっていくのを感じた。  この感じ、まさか・・・・・・  病院に検診に行ったほうがいいな。彼はそんな冗談を頭でまわし心を落ち着けると、 立ち止まっている彼女に足早に追いつき話を続けた。 「速瀬はいつも泳いでるだろ。それに、水泳部だったら朝練とかで泳げばいいんじゃ ねえのか?」  彼の言葉に、速瀬は肩をすくめて、 「正直、私も朝に一泳ぎしたいんだけどね。水温が低くて危ないからって、 禁止されてるのよね。まったく室内プール完成が来年だなんて、ついてないわ」  はぁと大げさに肩を落とし、彼に向かって微笑みかける。 「なんかオヤジが、朝に一風呂浴びるって言ってるように聞こえるぞ。 まぁ速瀬にとっては、泳ぐことってそういうことなのかもな」  鳴海も彼女に向かって笑いながら、ちょっと意地の悪いことを言ってみた。 事実、彼女にとっては日常なんだろうという意味も含めて。 「オヤジの朝風呂といっしょにしないでよ、全く。がんばってるなぁの、 一言くらい出ないのかしら」  まったくもぉ、などと小声で不平を言う彼女に向かって、鳴海は思ったことを そのまま言った。 「そんな事言われて、嬉しいか? 俺はそういう無責任な言葉、速瀬は嫌うと 思ってたけどな。表面だけの応援なんて、意味ないと思うけどな」  鳴海の突然の真剣な口調に、速瀬は驚きを隠せなかった。 「えっ?! ま、まぁそうとも言い切れないけど」 驚きとともに、彼女には嬉しかった。彼が、自分のことを考えてくれているのだということに。 「でもやっぱり、応援してくれてるって思うと嬉しいわよ。 それに言ってくれる相手にも、よる……かな?」 彼女は一瞬鳴海に視線を向けると、直ぐに俯き加減に視線を足元に落とした。 その仕草に鳴海の鼓動は、再び早くなる。彼にしてみても、何だって今日ばかり そういう風に見えるのか不思議で仕方なかった。いや、今までもあったのかも しれない。それに気がつかなかっただけで。 「ねぇ、孝之」  速瀬は優しげに、そして少し不安を持った視線を彼に向け声をかけた。 「なんだ?」  すこしぶっきらぼうに返事をする鳴海は、自分の考えを悟られまいとして いたのかもしれない。 「もし、孝之に・・・・・・」  そこで言葉を飲み込んだ速瀬。 その口調がいつもと違うことは、鳴海にもわかっていた。ふざけて言葉を 返せば楽だろう。でも、それはしてはいけないと、彼は直感で感じていた。 だけどどう答えていいのか。いや、そもそも思っていることとは違うのでは ないか。そんなことを考えて、彼は何も言えないでいた。ほんの一瞬の沈黙が とてつもなく長く重く感じた。 「あ、なんでもないのっ。気にしないで」  取り繕うように、速瀬は誤魔化す。 「なんだよ、気になるな。いつもみたいにさっぱりといえよ」 鳴海が言い迫ると、速瀬は急に不機嫌な顔になった。 「私だって、うら若き乙女なんだから。いろいろと事情があるのよっ」  わけもわからず、急に不機嫌になった彼女に戸惑う。 「事情って何だよ?」  鳴海は疑問をそのまま口にした。実際どんな事情なのか、興味があったのも本音だ。 「いろいろと大変なのよ。そんなこと女の子に言わせる気?」  若いとはいろいろなことがあるのだねと、彼も思うところがあった。 「ふぅん、せい・・・・・・ぐはっ」  言葉を言い終わる前に、彼の後頭部には速瀬の鞄が突き刺さっていた。 「無神経ねっ、ぶっとばすわよっ」  いつもの調子で言葉よりも先に、手が出ていた速瀬はまったくもぉとぶつぶつ 言い、先に校門をくぐっていった。 「せい・・・・・・しゅん、だな」  彼は校門に倒れこむと、その場で意識を失った。

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・あとがき・

「恋戦」プロローグ3 告白1
さてはて、どうなることやら。
Webでの見せ方研究用に、本の文章を流用してます。