薔薇
[学名] Rosa [分類]バラ科バラ属 常緑又は落葉低木 直立、又は蔓性 現在では三千種以上もの品種があるといわれている薔薇。 元は、ロサ・アルバ/ロサ・ケンティフォリア/ロサ・ダマスケナ/ロサ・ガリカ/ ロサ・フェティダ/ロサ・マルチフローラ/ロサ・ウィッチウライア、以上の7品種を祖とし、 古くから変異・改良が続けられてきたものなのです。 さらに十九世紀半ば、ヨーロッパを中心とした交配に中国原産のコウシンバラ(ロサ・キネンシス)が加わり、 四季咲きの品種を多く生みだしました。現在では、ロサ・キネンシスを含んだ8品種を薔薇の祖としております。 薔薇はもともと変異しやすく、自然界にも多くの種が存在しています。 が、何よりもその美しさに魅せられた人々が、人工交配によって種を作り出してきた功績は大きなものでしょう。 中でも特に、フランス皇帝ナポレオン一世の皇后「ジョセフィーヌ」が世界中のバラを収集させて、 新種のバラを人工交配させたことは有名です。 これほどまでに人々から愛され、プレゼントとしても、非常に喜ばれる薔薇。 その花言葉も「愛、恋、美、幸福、乙女、秘密、無邪気、清新……」等、非常に多く言葉がつけられています。 「刺」にすら「不幸中の幸い」と言う花言葉があるくらいです。 更に、薔薇の花言葉は、色によっても違いがあります。    白    心からの尊敬、清純・純潔、    黄色   友情、薄らぐ愛・嫉妬    ピンク  美しい少女、上品、気品、しとやか    赤    情熱、愛情・貞節、美、模範的    オレンジ 信頼・絆 そして驚くことに、同じ系統の色でも違いがあるのです。 例えば、赤系統を一例に出してみますと……    紅色   死ぬほど恋いこがれています    濃紅色  恥ずかしさ、内気    黒赤色  死ぬまで憎みます、化けて出ますよ この様に微妙な色の違いでも、様々な違った意味合いがあるのです。 あなたは薔薇をプレゼントされる時、色にも気をお使いですか?




緋い薔薇


「孝之さん、そろそろ帰るね。明日は宜しくっ。それじゃ」

「あぁ、気をつけてな」

買い物帰りに立ち寄った彼の部屋の玄関先。
まもなく日付も変わろうとする時間。
さよならの挨拶に軽い口付けをし、涼宮茜はアパートを後にした。
彼──鳴海孝之はドアを閉め、部屋に戻った。テーブルには四角い二つの包みと、
薔薇の花束が置かれている。
明日は茜の姉、遙の誕生日。
テーブルの上に有る物は、姉を驚かせようとする茜の考えで、
二人が用意したものだった。





港にある大きなショッピングモールは、デートする恋人達でいつも賑わっている。
彼らもその中の一組で、プレゼントを選ぶという目的よりも、その場の空気を楽しんでいた。

「ねっ、見て見てっ。可愛いー。これ欲しいなぁ」

広い通路に置かれた屋根付のワゴンに、綺麗に並べられたシルバーアクセサリを見るや、
茜は駆け寄って品定めをはじめた。

「なぁ、ひとつ聞いていいか?」

そんな茜の様子に、疲れた表情をした孝之が問い掛ける。

「え? なになに? 何か買ってくれるの?!」

茜は振り返ると、無邪気な笑顔を見せた。

「いや。確か、姉さんのプレゼント買いに来たんだったよな?」
「えっ、そーだけど? 改めてどうしたの??」

怪訝な顔をして問い返す茜に、孝之は小さいため息をする。

「さっきから茜の欲しい物ばかり見てるじゃないか」
「えー、いいじゃないっ、少しくらい。久しぶりに一緒に買い物にきたのに……」
「少しって、もう夕方だぞ? わかった、先に帰るぞ」
「もうっ。孝之さんの意地悪っ」

そんなやり取りがある程、孝之は散々茜に振り回されていた。
ぷぅと膨れ面をする茜に、しようがないなという笑顔を返すと孝之は「どれだ?」と
茜に問い掛ける。

「えっ! 買ってくれるんだっ! えへぇ」

嬉しそうに満面の笑みを浮かべる茜に、孝之の頬も緩んだ。
たしかに、こんな穏やかな休日を二人で過ごすのは久しぶりだった。
財布の中はさらに疲れ気味だが、彼の疲れは幾分か和らいだ。
そして肝心の、姉の誕生日のお祝いは、以前から決めてあった鎌倉にある有名な店のケーキ。
まだ手に入れてないと言っていた新作の絵本。その二つだった。
茜が「帰り際に買いましょう」と最後に回した花束を除いては。

「えっと、あとはお花ね」

茜に言われ、二人は花屋に向かう。店はショッピングモールの正面入口脇にあった。
店頭には鉢植えにされた桜やチューリップなど、春の花々が彩りよく鮮やかに並べられている。
少し肌寒い日も有るが、すでに季節は春を迎えていることを感じさせた。

「うわぁ、綺麗っ」

 茜は屈託のない笑みを浮かべて言うと、花の香りに満ちている店内に入っていく。
中も店頭に負けないくらい、春の花々で溢れていた。
二人が店内を歩いていると、物腰の柔らかな店員が孝之に近づいてくる。

「彼女へのプレゼントですか?」

そして、そんな問いを孝之に掛けてきた。
孝之は顔を紅くして返答に困っていると、笑いながら茜が助けを出した。

「いえ、私の姉が誕生日で。そのプレゼントなんです」

そう言って、店員に説明した。
悪戯っぽく孝之に微笑みかけながら「今度は私に買ってもらいますけど」と付け加えて。
その言葉に更に困ったような顔をした彼を見て、ちょっといたずらが過ぎたかなと思い、
茜は話を戻した。

「プレゼント、やっぱり薔薇がいいかな?」
「俺は花の事わからないから任せた」
「まったくもぉ」

茜はそっけなく言う彼に呆れていたが、世の男性一般に洩れず、孝之も花には疎かった。
そんな彼が意見を求められても、任せるとしか答えられないのは仕方がない。
彼女は店員に言って、薔薇のコーナーに案内してもらった。
そこは東京・青山に本店を置く、薔薇の品揃えでは日本屈指の店である。
壁一面のショーケースを見ると、二十数種類の色・形様々な品種の薔薇が並べられていた。

「こんなに有るのか?」

あまりの種類の多さに、花に興味がないと言っていた孝之ですら驚いている。
店員によれば今日はまだ少ないほうで、最盛期だとこの五割増の種類を扱っているというのだから、
更に驚きであった。
茜と店員が話している間、孝之も興味深げにケースに並べられた薔薇を眺めていた。
端からゆっくりと眺めていくと、ふと一箇所に目が止まった。
それは緋色に輝く薔薇。
なぜか孝之は目を離せなかった。
彼にはその薔薇が、遙のイメージに重なって見えたからだ。

「なぁ、この薔薇にしないか?」
「え?」

孝之の思わぬ言葉に茜は驚いた。「花の事は判らない」と言ってあまり関心を示していなかった彼が、
急にそんな事を言い出したものだから。

「どうして?」
「いや、なんとなくなんだけど。気になったんだよ、色とか形とか」

茜は孝之の差す、緋色の薔薇をじっと見た。

「でもあっちのピンクの方が、可愛くて姉さんにあってると思うんだけど……」

茜は気に入らなかったのか、そう言って隣のケースを指差す。

「そうか? 遙にはこれが似合うと思うんだよな。別に根拠はないけどな」

こだわる孝之を不思議に思いながらも、姉の為に選んでくれたのだから断る理由もなかった。
そして二人は、瑞々しく輝く緋色の薔薇を三十本、花束にして買うことにしたのだった。



孝之は丸一日買い物で歩いた為に、程よく体が疲れていた。
茜とは、明日朝早く涼宮の家に行き、遙のお祝いをする約束になっている。
日付は変わっていないが、彼は早めに寝ようと支度を始めた。

とその時、ふとドアをノックする音がした。
気のせいかと思ったが、しばらくすると再び音が聞こえた。こんな夜遅くに来る人は限られている。

「茜か?」

何か忘れ物でもして戻ってきたのだろう。
そう思い彼女の名前を呼びながら、無造作にドアを開けた。

「えっ?」

孝之は思わず声を漏らした。そこに、思いがけない人の姿があったからだ。



扉の向こうに立っていたのは、茜ではなかった。

「はる……か?」

そこには茜の姉、遙の姿があったのだ。

「こんばんは、孝之くん。えへへ、来ちゃった」

その姿は、悪戯が見つかって、照れ隠しをしている子供のようだった。
彼女は舌を出しながら、はにかんでいる。

「なんでこんな時間にいるんだ?」

孝之は、疑問をそのまま口にする。
彼女がこんな時間に、出かける事はない筈だ。しかも自分のところに来ているなんてと。

「う〜、孝之くん酷いよ、そんな言い方。」

遙は頬を膨らませて、拗ねた表情で孝之を見上げる。

「あと少しで、私の誕生日なんだよ?
 孝之君からのおめでとうを、最初に聞きたくて。だからね、えへへ」

孝之に一歩近づき、彼女は無邪気に微笑む。
その姿が、二人が付き合っていた四年前、高校時代の姿と重なって見えた。
四年という歳月の流れを、感じさせないほどに。

事実、遙の時間だけは止まっていた。

高校三年の夏に起きた、忌まわしい事故。

原因不明で昏睡していた、三年間の入院。

その空白の時間が、彼女と彼女に関わる人に残した傷は、あまりにも大きなものだった。
肉体的にも精神的にも、そして彼らの関係にも。
遙は今、孝之の恋人ではない。孝之の恋人は、遙の妹である茜なのだ。
孝之と茜の二人は、遙のお見舞いを繰り返す日々の中で、お互いの気持ちに気付き確かめ合った。
そして遙が目覚めてから一ヶ月後、二人は付き合い始めた。
その二人を優しく見守る姉、遙。

それが今の三人の関係だった。

孝之は遙の言葉に納得したものの、まもなく日が変わるという時間。
彼女がここに居るのは、やはりおかしいと思い、尋ねた。

「そうなのか。で、家の人には──」
「ねぇ、中に入っていいよね? ちょっと寒いな」

遙は孝之の言葉を遮り、急かせた。
確かに三月も終わりが近いとはいえ、夜ともなればまだ肌寒い。
遙は自分を抱きしめるように腕を組み、首をかしげ訴えるように彼を見つめている。

そしてもう一度繰り返す。

「ね? 入っていいよね?」

その仕草が、孝之の思考を止めた。

「あ……あぁ、わりぃ。ほら」

そういって孝之は、遙を玄関に通した。
遙は「おじゃまします」と言って、靴を揃えてから部屋にあがった。
手には、なにやら荷物を持って。



「わぁっ、凄い!」

玄関の扉を閉め鍵をかけていた彼に、奥から遙の驚きの声が聞こえた。
孝之は部屋に戻って、遙の驚きの原因がなんなのかすぐにわかった。
遙は花束を抱きかかえながら、嬉しそうに部屋の中を歩いていた。

「すごく綺麗。それにいい香り」

彼女は立ち止まりベッドに腰掛け、香りを楽しむようにゆっくりと深呼吸した。

「これ、私へのプレゼントなの?」

満面の笑みで聞く遙に、孝之もつられて嬉しくなった。

「あぁ、遙へのプレゼントだよ。ほら、港にあるだろ、ワールドポタルって。
 あそこの花屋で買ったんだよ」

「孝之君が選んでくれたんだ?」

遙は嬉しくて仕方がないと、満面の笑顔で孝之に聞いた。
彼もその笑顔で幸せになり、楽しげに答えた。

「あぁ、すげぇ一杯薔薇があってな。茜はピンクが良いって言ってたんだけど、
 俺がこれがいいって選んだんだよ」
「そうなんだ、茜が一緒だったんだ」

彼女は笑顔のままだったが、声のトーンは少し下がっていた。

「あ、いや、その……」

失敗した。
調子に乗りすぎたと、孝之は気まずくなった。一瞬の空白が生まれる。

「あっ、気にしなくて良いんだよ、孝之君は。楽しかった? 茜とはうまくいってる?」

心配する表情で見上げる遙に言われて、彼は更に気まずくなった。
あまりに嬉しそうにしてるのを見て、浮かれ過ぎてしまった。

「あ、あぁ」

孝之は返答に窮しながらも、なんとか答えた。

「本当? よかった。二人がうまくいってて」

遙は心底安心した笑顔を見せると、言葉を続ける。

「私もね、ちゃんと約束守ってるから」
「えっ?」

それまでとはトーンの違う、遙の声に何かを感じ彼女を見る孝之。
彼女の表情は穏やかに、微笑んでいる。

「約束したよね? 茜には、内緒にするって」

約束。それは、茜には隠しておかなければならない事。

「あぁ、そうだったな」
「えらい? えらい?」

無邪気に甘えてくる遙。

「あぁ……」

力なく返事をする孝之。

茜に隠す事、それは……

「ふふ。じゃあご褒美、欲しいな。キス、して」

そう言って、遙は孝之にせがむ。
真っ直ぐと彼を見上げる瞳が、そっと閉じられた。

「あぁ……」

言われるがまま孝之は、遙の隣に腰掛けると軽く唇を重ねた。
遙の腕が、孝之の首にまわされる。

「大好きだよ、孝之君」

遙は孝之を引き寄せ、キスをする。彼
の閉じた唇に舌先を滑らせ、もっと深く絡めたいと割り込ませる。
孝之は求めてくる彼女に答えるように、舌を差し出し絡めていった。

茜に隠さなければいけない事。


それは孝之と遙の二人が、今もまだ付き合っているという事だった。




「んぅ……ふぅ」

二人の唇が離れると、透明な一筋の糸が繋がる。
遙は舌で糸を絡めとると、満足そうに微笑んだ。
そして体を離し、再び唇を軽く一瞬だけ重ねる。

「孝之君、時間……」

孝之が時計に視線を向けると、針は零時を回っていた。

「日付、変わったね」
「あぁ」
「ねぇ孝之君? 言ってくれないの?」

遙は孝之の肩に寄り添いながら、上目遣いで甘えている。

「あぁ。遙、誕生日おめでとう」
「ありがとう、孝之君」

遙は満面の笑みを浮かべ、孝之に再び抱きついた。

「ふふ、嬉しいな。こうやって孝之君に、お祝いしてもらえるなんて。ずっと憧れてたんだ」

三年もの昏睡から目覚めて半年。
退院し日常生活を始めている彼女。
その姿は入院していた頃に比べ、少し肉付き肌の色も健康的になってきていた。
孝之は腕を回し遙を抱きしめ、肩から首筋へと指先で撫でていった。
滑らかな肌の感触を感じる。

「あっ……」

遙が小さく声を漏らす。
彼女は遅れていた時間を取り戻すかのように、あどけなさを残した容姿とは裏腹に、
雰囲気はこの数ヶ月で急激に大人っぽく妖艶になっていた。
孝之は首筋から耳、うなじへと指先での愛撫を続けた。

「んぅっ、孝之君。私ね、一番好きな人からのおめでとうをね、一番初めに聞きたかったの」

吐息を漏らしながら、しなだれる遙。
孝之は欲望が高まっていくのを、抑えられなかった。
遙をベッドへと押し倒そうと、覆い被さろうとする。
それに気づいた遙は、すっと身体をそらす。

「まだ駄目だよ、孝之君」

 悪戯する子供を叱るかように、遙は彼をいなした。

「まずはお祝いしましょ?」

そう言って立ち上がるとテーブルに近寄り、近くのコンビニの袋を差し出した。

「孝之君はいいから座っててね。ちょっと待ってて」

そう言って遙は台所へ行き、皿とグラスを取り出し、手際よく並べていった。
用意が終わるまで五分もかからなかっただろう。孝之はその様子を、ベッドに腰掛け眺めていた。  

「孝之君、こっちに来て」

支度が終わった遙に呼ばれ、孝之はテーブルについた。
急場の用意しにしては、立派なものであった。
クラッカーとチーズが盛られた皿や、スモークサーモンのサラダまで用意されている。

「すごいな。こんなに」
「コンビニって、何でも置いてるんだね。んっしょ」
「鴨のたたき、なんてもんまであるのか」
「美味しそうだったから、つい。よいしょっ」

二人で会話をしている間、遙は掛け声と共にシャンパンのコルクと格闘していた。
必死になって引っ張っている姿が可愛くて、孝之は思わず吹き出した。

「う〜、孝之君ひどいぃ」

拗ねる遙がまた可愛くて、孝之は更に笑った。

「ほら、こっちにかしな。これは、こうやるんだよ」

孝之は遙から瓶を受け取ると、近くにあったタオルをあててコルクを押し上げた。

「うわっ!」
「きゃっ!」

シャンパンがポンッと言う音と共に開き、勢いよく泡が溢れ出してきた。
瓶は遙との格闘の最中、散々に揺らされていたのであった。

「うわ、失敗しちまった」
「ビックリしたぁ。でも凄いね、孝之君。簡単に開けちゃうんだもん」

遙は子供みたいに、はしゃいでいる。

「まぁ、バイトでやってるからな。多少はな」

とはいえ、彼が勤めているのはファミレスで、そう機会のあるものではなかったが。
孝之は泡が落ち着くまで少し待って、二つのグラスにシャンパンをゆっくりと注ぐ。
遙はグラスに立ち上る泡を、じっと見ていた。

「じゃあ、グラスを持って」

孝之の言葉でグラスを持つと、遙は目を輝かせながら彼を見つめていた。
孝之は照れながらも、遙を見つめ返し優しく声をかける。

「遙、二十二歳の誕生日おめでとう」
「ありがとう。孝之君」
「かんぱい」
「かんぱい」

二人の声が重なり、グラスの重なる音が、部屋に響いた。
二人はゆっくりと飲みながら、テーブルの上の料理をつまんだ。
シャンパンが空になった後には、去年貰ったままになっていた、ボジョレーを開けて飲み続けた。
二人は飲みながら、お互いの日常を話した。

「こうやってゆっくりと話すの、久しぶりだね」
「そうかもしれないな」

普段は隠れて会う為に、時間的にも精神的にも追われている。
が、今はそんな事を忘れて、二人の気持ちは穏やかだった。

「孝之君は優しいよね」
「そうか?」

孝之がそう答えると、遙は彼の傍に移動し寄り添った。

「うん、とっても優しい」
「……」
「大好きなの。ずっと、そばに居てね」
「あ、あぁ……」

二人は心地よい酔いに、包み込まれていった。
何をするでもなく、二人はそっと寄り添いながら抱き合っている。
時計の針の動く音が、静かに時間の流れを知らせていた。





「ねぇ孝之君。一緒にお風呂に入りましょ」

遙がそんな提案をしてきたのは、彼が少しうとうとし始めた時だった。

「あぁ、いいぞ」

酔いと眠気の中、孝之はぼんやりと返事をした。
遙は立ち上がると、浴室にお湯を張りに行く。

「すぐに溜まると思うから」

戻ってきた遙は、孝之の傍に座った。そして再び寄り添いながら、ゆったりと二人の時を過していた。
孝之はすでに限界だった。寝ようとしていた時間をとうに過ぎ、アルコールも入っている。
孝之の浅い眠りは、徐々に深くなってきていた。

「孝之君、お湯溜まったよ」
「ん? あぁ……」

遙は寝ぼけながら答える彼の手をとった。

「さぁ、いこ。ほらっ」

遙は彼の手を引いて、浴室へと連れて行った。
孝之は、半分寝ぼけてぼんやりとしている。

「はーい、バンザイしてくださーい」

遙は幼稚園児を着替えをさせるような声をかけ、彼を脱がした。
部屋着のスウェット姿の孝之は、簡単に裸にされてしまった。

「ほら、孝之君。先に浸かってて」

孝之を先に浴室に押し込むと、続けて彼女も服を脱ぎ入っていった。
浴槽の中で遙は孝之に背を向け、体を預ける。
彼は両腕をまわし、彼女を包み込むように抱きしめていた。
温かいお湯の中で、ふわりとした感覚に包まれる。
二人は、水中の浮遊感に心地よく身を委ねていた。

「そうだ、いいこと思いついた。孝之君、そのままで待っててね」

そう言って遙は浴槽から上がると、嬉しそうに浴室を出て行った。
しばらくして彼女は戻ってきた。両手に、赤ワインの入ったグラスを持って。

「はい。どうぞ」

遙は、孝之に片方のグラスを手渡した。

「お風呂に入りながら飲むっていいと思わない?」

そう言って、もう一方のグラスは棚に置いた。

「先に飲んでてね。すぐ戻るから」

そう言い残して遙は再び浴室を出た。
孝之は手渡されたワインに少し口をつけ、遙の戻りを待った。

程なくして戻ってきた彼女の片手には、今度は薔薇の花束が抱えられていた。
孝之には彼女の行動が理解できなかった。
なぜ浴室に花束を持ってくるのか、全く考えが思いつかない。

「どうするんだ? そんなもの」

孝之は疑問をそのまま声にして、遙に質問する。
彼女は笑顔で答えた。

「ふふふ。えっとね、こうするの」

そう言うと遙は、まず浴槽に腰掛けた。
そして後ろ手に隠していた包丁で、薔薇の花だけを浴槽に切り落とし始める。

遙の突然の行動に、孝之は慌てた。
眠気も覚め、思わず立ち上がった。

「お、おいっ、遙! それは明日──」
「いいの、孝之君。これは私へのプレゼントなんでしょ?
 私ね、一度薔薇湯に入ってみたかったの」

孝之の言葉を遮り嬉しそうに言う遙に、彼は言葉を飲み込んだ。
しかし、その薔薇は明日、涼宮の家に持っていく為のもの。
そして、茜と一緒に買ったものだった。

まずい。

孝之は、焦って怒鳴った。

「明日、茜になんて言えばいいんだよっ!」
「茜にばれるのが、そんなに怖い?」

遙は無表情に、抑揚の無い声で言う。
孝之は遙の視線に飲み込まれた。その目には深く得体の知れない何かを感じた。

「いや、それは……」

急に力なく答える孝之に、遙は続ける

「私の気持ちより、茜の心配するんだ」
「いや……」

孝之は圧倒されていた。
語気を荒げているわけでもなく、淡々とした遙の言葉に。

「私は良いんだよ。私の傍に孝之君が居てくれる為だったら、茜にばらしたって」
「っ!」

孝之はあまりの言葉に、声を失った。

「どうしたの? 孝之君」

遙は無邪気に笑いながら、彼を見ている。

「それは、話が違──」
「何の話? ずっと傍に居てくれるなら、茜に内緒にしてあげるって、その事?」

遙は彼を攻め立てる。

「だって孝之君、私と居るのに茜の事心配してるんだもん。私の事だけ見てて欲しいのに」
「だけど、ばれるのはまずい……」

孝之は何とか抵抗する。

「そっか、孝之君困るんだ。うふふ」

悪戯に満足した子供みたいな表情で、孝之を見つめている。

「そんなに焦らなくても平気よ。ばらすなんてウソだから。そんな事しないから」

笑顔でいながらも、その目は孝之の心を見透かすように、彼を見据えていた。
その目に、孝之は遙に恐怖を感じた。
そして恐怖から逃れようとする気持ちからか、茜への罪悪感が押し寄せてきた。
そして孝之は、ついにその言葉を口にした。

「遙、もう終わりにしないか?」
「えっ?」

突然の言葉に、遙は驚いた。
目を見開いて、孝之を見返す。彼は耐えられず、目をそらした。

「もうこんな関係、やめにしないか?」
「孝之君……」

遙は泣きそうな顔をして、彼に抱きついた。

「今日は私の誕生日なのに。どうしてそんな悲しい事言うの?」
「それは……」

遙は頭を孝之に押し付け、俯いている。
孝之は遙の姿を見ることが出来ずに、天井を仰ぎ見ていた。
お湯なのか涙なのか判らない雫が、水面に落ちた音が聞こえた。

「そんな事言って欲しくない」

ゆっくりと顔を上げる。まっすぐとした瞳で、孝之を見据える。

「そんなの悲しすぎる」
「……」
「それに……」

遙は一度言葉を区切る。彼女の表情が、泣き顔から笑顔へと変わっていった。

「……?」

なぜ笑う?

彼は混乱した。
今悲しいといった彼女が、なぜ笑うのか彼には全く判らない。
呆然としている孝之に、遙が静かに語りかけた。

「終わらせる事は出来ないんだよ、孝之君には」
「え?」

遙は彼を絡めとるように、ゆっくり言葉を続ける。

「これは孝之君が、始めた事なんだから」

彼は視界が白くなっていくのを感じた。

「これは孝之君が選んだ、結果なんだから」

孝之は思い出す、始まりを。
茜との約束を振り切って一人で、遙に会いに行った日のことを。

「だから。孝之君は私から、離れられないんだよ?」

それは茜と付き合う為に、遙に別れを告げに行った日。

「……」

彼がケジメをつける為に、遙に会いに行った日。

「孝之君は優しいよね? 私の傍に、ずっと居てくれるんだよね?」

遙の言葉に意識も体も縛られていく。
身動きも出来ず、声すら出ない。

あの日も同じだったと思い出す。
すがる遙を振り切れず、彼女のもとから離れることが出来なかった事を。
彼女の言葉に、振り返ってしまったことを。

「孝之君は、私の事好きだよね?」

なんと答えればいいのか。
孝之は深海に居るような、息が詰まる程の圧迫感に、押しつぶされてしまう。

彼の思考は、止まった。

「孝之君は優しいから、私の言う事なんでも聞いてくれるもんね?」
「……」
「ずっと一緒だからね」

孝之は何も答えることが出来なかった。
ただ一度、頷くだけで精一杯だった。



静かに、天井からの水滴が浴槽に落ちる音が響く。
水面に、波紋が広がりゆっくりと消えていく。

「もう心配しないで。大丈夫だから」

そう言いながら、花を浴槽に切り落としていく。
数輪の薔薇が、水面に咲いていく。

「んぅ、包丁で切るの難しい」

遙は四本ほど薔薇を切り落としたところで、包丁を使うのを諦めた。

「えいっ」

掛け声と共に花束を、浴槽に投げ入れた。
お湯に入れた薔薇は、芳香をさらに強く放ち始めた。
浴室が、薔薇の香りで満ちていく。

「孝之君、入るね」

遙が声をかけて、浴槽に入る。
中であぐらを組んで座っている孝之の上に、遙は彼に背を向けて座った。

「抱いて」

遙が後ろに体を預けると、孝之は彼女の腰から前に腕を回し抱き支える。
遙は花束を引き寄せると、花びらを千切っていった。
一輪、又一輪と無言のまま同じ作業を繰り返していく。
水面は徐々に、赤く染まっていった。

「綺麗だね。それに、いい香りだよね」

遙は満足げに微笑むと、花びらを一枚摘み上げた。

「この薔薇、綺麗な色だね。気に入っちゃった」
「……」

孝之はぼんやりとしている。何が起きているのか、理解できない。
考えているのに、整理が出来ないでいる。

「ねぇ、孝之君? この薔薇、孝之君が選んでくれたんだったよね?」
「あぁ」
「嬉しいな、孝之君。ありがとう」

遙は体の向きをずらすと、孝之の胸に寄り添った。

「さすが孝之君だね。私の好きな物が判るんだから」
「……」

「それとも孝之君が選んでくれたものだから、好きになれるのかな?」
「はる……か……」

「やっぱり孝之君と私が、おまじないしたからかな? 永遠にずっと一緒だって。         
 だから分かり合えるのかな? ねぇ孝之君、忘れてないよね?」
「え?」

遙は孝之の手を取って、指を絡める。
孝之にはその感覚すら、遠い記憶のものに感じる。      

「夜空に星が瞬くように……」

遙がおまじないを始める。
懐かしい、四年前の夏の星空の下二人、指を絡めてしたおまじない。

「溶けたこころは離れない 例えこの手が離れても」

孝之はその先を続けた。

「ふたりがそれを忘れぬ限り……」
「ふたりがそれを忘れぬ限り……」

遙と孝之、二人の声が重なる。

「……」
「ふふふ。このおまじないね、最後が大切なんだよ? 覚えてる?」
「……?」

孝之は最後の部分だけを、もう一度呟いた。

「ふたりがそれを忘れぬ限り……」

遙は笑顔で、彼を見つめる。

「そう。二人は心が溶け合った事を、忘れちゃいけないの」
「あぁ……」

ふと、遙の表情が曇る。

「でもね、人の心って弱いから。だんだん時間が経つと薄れて、忘れてしまうの」
「……」

彼女はまた、彼に微笑みかけるように表情を変えた。

「だからね、時間を止めればいいの」
「……?」
「時間が止まれば、忘れる事はなくなるんだよ」
「あぁ……」

遙は、自分の言葉に満足げに彼にも同意を求める。

「すごいでしょ? 誰にも邪魔されない二人だけの世界にいけるんだよ」
「そうだな……」

嬉しそうに微笑みかける遙に、彼は答えた。

「薔薇と命の香りが交じる緋い世界で、永遠に二人の心が溶けあうの」

孝之は遙の言葉を、じっと聞いていた。

「この薔薇のお風呂を見て、思いついたの。この中で永遠に、二人で居られたらいいなって」
孝之は返答しなかった。
彼にはもう、考える事はなかった。
それが遙の望むことなら、何でも受け入れようと。

「孝之君は、そのままにしてていいよ」

ただそれだけだった。

「ぜんぶ、わたしが、してあげるね」

遙は孝之を見つめ、優しく口付けをする。

「大好きだよ、孝之君」

体を少し離すと、遙は手にした包丁の切っ先を孝之の喉下に当てた。
孝之の目に映った遙は、無邪気に微笑んでいた。

「はる……か…」

彼は最後に、彼女の名前を口にした。

「孝之君、永遠に結ばれましょ」

遙は彼に当てた刃を、ゆっくりと沈めた。







             「緋色の薔薇」の花言葉
     
                  情事、灼熱の恋、陰謀
    



・あとがき・

     
2006年遙聖誕祭に。
「遙隠し妻エンド」の後の世界を描いた二次創作小説

2002年冬コミで発表した、「秘密」掲載されていたものを公開しました。
オフセット初作品で、この作品が本格的な二次創作同人への始動でした。

この作品はイメージから描き上がりまで、本当に数日という勢いで一気に 書き上げたものです。ああいったシナリオは、特に好きなシーンですので。 男と女の愛憎劇って、いいものですよねぇ〜。 特に愛ゆえの殺人・心中は、もっとも好物ですw ちなみに。薔薇湯は掃除が大変なので、あまりお勧めできませんことよ?w